清水寺の見どころ・解説
奥の院から撮影
清水坂から順に掲載しています。
来迎院(経書堂)
産寧坂(三年坂)の上(清水坂沿い)にある清水寺の境外塔頭で、写真の本堂は「経書堂(きょうかくどう)」と呼ばれ、聖徳太子像を本尊としています。
堂内正面には、両手で持ち上げて祈願成就を占う石「重軽さん」が安置されています。
七味屋本舗
創業は、明暦年間(1655-1659)とし、当初は「河内屋」という名の茶店を営み、清水寺の参拝者や修行者に「からし湯」を提供していました。「七味唐辛子」の商いを始めた時期ははっきりしませんが、文化13年(1817)には「七味家」と改称し、七味唐辛子の老舗として広く知られるようになりました。
真福寺(大日堂)
清水寺の境外塔頭で、本堂に大日如来像を安置することから「大日堂」と呼ばれています。
現在の本尊は、京都伝統工芸大学校の学生たちによって造られた金剛界大日如来像で、平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で被災した、岩手県陸前高田市気仙町の松原「高田松原」の流木松が使われています。
宝徳寺
浄土宗の寺院で、聖徳太子作とされる阿弥陀如来を本尊としています。
江戸時代、清水寺は領地である門前町の他宗派寺院の住職の人事、土地・財産の異動についての認可権を持っており、成就院監督の元、一般行政は宝徳寺を総堂として支配していました。
善光寺堂と首振り地蔵
如意輪観音を本尊とする洛陽三十三観音霊場の第十番札所です。
写真右中央にある首振り地蔵は、願い事のある方向に首を回して祈願すると成就するといわれています。
馬駐(うまとどめ)
文明元年(1469)応仁・文明の乱の以降に建てられたもので、同時に5頭の馬を繋ぐことができます。
仁王門
奥には、西門と三重塔
室町時代後期に再建されたもので、その丹塗りの美しさから、「赤門」とも呼ばれています。門の高さは約14メートル、正面の石段の高さは4メートルほどあります。
安置されている仁王像は鎌倉時代のもので、高さは365センチメートルあり、京都府下では最大級のものとなっています。
扁額「清水寺」は、平安時代の書家で後に「三蹟」と称えられる藤原行成の筆です。
(ご報告、ありがとうございました。 2024/08/29)
門正面の左右ともに開口する石造の狛犬は、東大寺南大門の裏脇間に安置されている石造獅子像をモデルにして造られています。
鐘楼
慶長12年(1607)に再建されたもので、平成19年(2007)清水寺門前会により寄進された梵鐘が吊るされています。
三重塔と景清爪形観音
左の写真の三重塔の手前に景清爪形観音
三重塔は寛永9年(1632)に再建されたもので、高さは約30メートルあります。
景清爪形観音は、平景清自らが爪で彫った観音が火袋の内部に刻まれているとされる石灯籠のことです。
随求堂(ずいぐどう)
清水寺の塔頭です。写真の本堂は、享保20年(1735)に再建されたもので、「胎内めぐり」で広く知られています。江戸時代には有力塔頭として栄えていましたが、現在はこの堂を残すのみとなっています。
秘仏本尊「大随求菩薩」は、大随求陀羅尼経を具現化したもので、衆生の求めに随(したが)い叶える功徳をもつといわれています。
手前の石標に「←成就院(名勝庭園)」とありますが、本堂へ進んでも成就院にたどり着くことができます。尚、左に進むと中興堂、春日社、千体石仏群を経て成就院に到着します。
中興堂
北法相宗を開宗し、中興開山した大西良慶和上の十三回忌を記念して建立された、和上のお霊屋です。良慶和上の金銅肖像を安置しています。
春日社(鎮守堂)
江戸初期に再建された法相宗の鎮守である春日明神を祀る社です。
千体石仏群
明治初年の神仏分離政策により、破壊・廃棄される恐れのある石仏を市民が清水寺に持ち込んだため、寺はそれらを集めて供養しています。
成就院
清水寺の再興した願阿弥の住坊を起源とする、かつて清水寺三職の一つとして栄えていた元塔頭で、現在は本坊。幕末において、尊皇攘夷派の僧であった月照とその弟の信海は、成就院の住職でした。
庭園は通常非公開ですが、国の名勝に指定されており、春と秋に公開する習わしがあります。
西門(さいもん)
寛永8年(1631)に再建された西門からの眺めは絶景とされています。現在、一般人は通行出来ませんが、各種イベントで利用されてます。
西門から東に少し離れた場所から京都市街も一望することが出来ます。
経堂
寛永10年(1633)に再建されたものです。"講堂を兼ねてきた伝統から仏教法話や仏教文化普及のイベントに活用されて"(参考①)います。
田村堂(開山堂)
江戸初期(1631-1633)の再建。坂上田村麻呂とその妻高子、行叡と賢心(延鎮)を祀ることから、「田村堂」または「開山堂」と呼ばれ、寛永期に造られた田村麻呂夫妻の像、室町期に造られた行叡と賢心の像を安置しています。
北総門
塔頭成就院の正門として江戸初期(1631-1633)に再建されました。
月照・信海兄弟歌碑と西郷隆盛弔詩碑
成就院の住職であった月照、その弟で後を継いだ信海の辞世の句と月照の十七回忌法要で西郷隆盛が詠んだ漢詩が刻まれた石碑です。
二人は勤皇僧であったため、安政の大獄によって月照は京都を追われる身となり、ともに逃げた西郷と錦江湾(鹿児島湾)で入水しますが、月照のみ命を落とし、信海は攘夷祈願をしたために捕らえられ、江戸で獄死しました。
轟門
江戸初期(1631-1633)に再建された清水寺の中門です。その前の小さな橋は轟橋と呼ばれています。
ここより先に進むためには、拝観料が必要となります。厳密にいうと、本堂の入場には拝観料が必要で、轟門はその入口となっています。(清閑寺方面や京都一周トレイルの登山口へ向かう出入口は考慮していません)
朝倉堂
洛陽三十三所観音霊場の第十三番札所で、本堂と同じく清水型十一面千手観音を本尊とし、明治政府の神仏分離令により地主神社で祀ることができなくなった文殊菩薩像や廃絶した塔頭・子院の仏像なども安置されています。
本堂
寛永10年(1633)に再建された、正面約36メートル、側面約30メートル、高さ18メートルほどの仏殿です。十一面千手観音菩薩を本尊とする観音堂であることから、普門閣、大悲閣とも呼ばれています。洛陽三十三所観音霊場の第十二番札所。
急な斜面に迫り出すように建てられており、突き出た部分は舞台と呼ばれ「清水の舞台」として広く知られています。舞台の高さは約13メートル。
錫杖と高下駄
明治の中頃に大峰山の修験者たちが奉納した鉄製の錫杖と高下駄です。
出世大黒天像
室町時代には鴨川の中島にあった法城寺に祀られていたもので、江戸時代に入ると門前町の法成寺、そして境内の大黒堂から現在の本堂へと場所を移しました。
表面に塗られた漆の剥落が進んだため、平成20年(2008)京都伝統工芸大学の漆工芸専攻の教員、生徒達によって修復されています。
地主神社
本堂の後方にある大国主命(おおくにぬしのみこと)を主祭神とする神社で、縁結びのご利益や恋占いの石で広く知られています。
社殿の修復のため、工期約3年で、令和4年(2022)8月19日より閉門しています。
釈迦堂
平安時代末期の釈迦如来坐像を中尊とし、脇侍には平安末期から鎌倉時代作とされる文殊菩薩像と普賢菩薩像が祀られています。
百体地蔵堂
ここに祀られている地蔵の中には、自分の子供と同じ顔をした地蔵がいることから、子供を亡くした親たちから崇拝を集めています。
阿弥陀堂
寛永8年(1631)に再建されたもので、同時期に造られたとされる阿弥陀如来坐像を本尊としています。また、文治4年(1188)浄土宗の開祖となる法然が日本最初の常行念仏を行った場所でもあることから、法然(円光大師)の像も祀られています。
奥の院
三面千手観音坐像を本尊とていることから、奥の千手堂とも呼ばれ、『清水寺縁起』に登場する行叡が残した草庵の旧跡と伝えられています。
南脇堂には、夜叉が祀られており縁切りの神として崇敬を集めています。
奥の院からの眺めは絶景です。
子安塔(こやすのとう)
本堂の真南にある高さ15メートルほどの塔で、安産の祈願所として信仰を集めています。
子安塔付近にある階段からの眺めです。
本堂後方が黄色なのは、5月から6月に開花するブナ科のツブラジイの影響かと思われます。
音羽の滝
『清水寺縁起』で語られている金色の水流の源とされる滝で、そこで滝行をしていた行叡が200歳もの長寿であったことから、「金色水」「延命水」として信仰されています。また、その清らかな流れは「清水寺」の名の由来となっています。
舌切茶屋
月照の友である近藤正慎の子孫が営んでいる茶屋です。
正慎は、安政の大獄により京都を逃れた月照を幇助した嫌疑で六角獄舎に投獄されますが、黙秘を貫き、舌を噛み切って自害しました。
清水寺は、正慎の遺族や子孫の為に境内での茶屋を営業する権利を保障し、現在も彼の子孫によって茶屋が営まれています。
忠僕茶屋
月照の下僕であった大槻重助の子孫が営んでいる茶屋です。
重助は、安政の大獄により京都を追われる身となった月照に付き従い、入水した月照を弔いました。その後、六角獄舎に投獄され、同じく囚われの身であった月照の弟信海から兄の追悼と清水寺の護持の命を受け、釈放後は茶屋を買取って、遺命を守り続けました。
清水寺は、重助の子孫の為に境内での茶屋を営業する権利を保証し、現在も彼の子孫によって茶屋が営まれています。
参考文献
- 横山正幸『京都清水寺さんけいまんだら』(京都 清水寺)
- 平凡社『京都・山城寺院神社大事典』