月照・信海兄弟歌碑と西郷隆盛弔詩碑
清水寺の成就院の住職であった兄「月照」、その後を継いだ弟「信海」の辞世の句と月照の十七回忌法要に際し、西郷隆盛が詠んだ月照を悼む漢詩が刻まれている石碑です。
二人は勤皇僧であったため、安政の大獄(※)によって月照は京都を追われる身となり、ともに逃げた西郷と錦江湾(鹿児島湾)で入水しますが、月照のみ命を落とすことになりました。信海は青蓮院宮のために攘夷祈願をしたことで捕らえられ、江戸で獄死しています。
- (※)
- 安政5年(1858)大老井伊直弼は朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約を締結、将軍継嗣においては紀州藩主徳川慶福(後の家茂)を擁立し、反対するものを弾圧しました。
以下、左の石碑から
- 信海辞世歌
- 「西の海あずまのそらとかわれども こころはおなじ君が代のため」
- (書)近衛忠煕
月照は、嘉永7年(1854)弟の信海に成就院住職を継がせて近衛忠煕の歌道に入門します。西郷隆盛とは近衛家の老女村岡の紹介で知り合い、三人(西郷・月照・村岡)は清閑寺の郭公亭でしばしば尊王攘夷の謀議をしたといわれています。
参考①の成就院の項に"当時の代表的勤皇公家・左大臣近衛忠煕が、たびたび訪れ、西郷隆盛ら勤皇志士たちが、しばしばひそかに来院し密談した。"とあり、成就院における他の解説も同じような内容が記されています。
- 忍向翁書歌
- 「大君の為には何か惜しからむ 薩摩の追門に身は沈むとも」
- (書)久邇宮朝彦親王
月照は後に忍向と名を改めています。久邇宮朝彦親王は青蓮院宮の後の名です。
- 西郷隆盛公記念碑
- 「相約して渊(ふち)に投ず、後先無し。豈図(あにはか)らんや波上再生の縁。頭(こうべ)を回らせば十有余年の夢。空しく幽明を隔てて墓前に哭す。」月照和尚の忌日に賦す。南州
月照の墓地がある鹿児島の南林寺(廃寺)で執り行われる月照の十七回忌法要に際し、西郷は月照を悼む漢詩を詠み、京都から参列する大槻重助に託しました。南洲は西郷の号(本名とは別に用いた名称)です。
参考文献
- 横山正幸『京都清水寺さんけいまんだら』(京都 清水寺)