清水寺の歴史
清水寺は、十一面千手観音を本尊とする寺院で坂上田村麻呂により建立されました。
観音菩薩はその慈悲によって、救いを求める人々に分け隔てなく手を差し伸べ救済するとされており、清水寺はこれを信じる人々の信仰により栄えてきました。
江戸時代には、本堂の舞台から飛び降りると願いが叶うという信仰が庶民の間で広まり、駄目元で思い切った事をやってみる例えとして、「清水の舞台から飛び降りる」ということわざが生まれています。
清水寺縁起
『清水寺縁起』として伝えられているものを纏めると
宝亀9年(778)賢心(※)は、白衣の仙人の夢告により北へ向かうと金色の水流を見つけます。この流れの源を辿ると滝(音羽の滝)があり、滝下にある草庵で白衣の居士と出会います。居士は賢心に対し「名は行叡、歳は200に達し、今まで千手観音の真言を唱えながら水垢離をしていた」といいます。また、「貴方を待っていた、貴方はこの草庵に住み、この霊木で千手観音を造り、祀って欲しい」と言い残し、姿を消しました。
行叡が戻らないので探しに出ると、山科の東峰に履物が落ちており、これらの出来事が観音の霊験によるものと悟り、賢心は授かった霊木で観音像を彫り、草庵に祀りました。
- (※)
- 観音信仰の霊場として知られる子嶋寺(奈良県)の報恩に弟子入りし、山に篭って修行を重ねていました。後に延鎮と改名します。
宝亀11年(780)坂上田村麻呂(※)は、妻の安産ために鹿狩りをしていましたが、音羽の滝で賢心と出会います。賢心に感銘を受けた田村麻呂は、妻と共に帰依し、十一面千手観音を本尊とする寺院を建立、寺名は、音羽の滝の清らかな流れに因み「清水寺」としました。
- (※)
- (758-811)東北地方の蝦夷征討や薬子の変を治めるなど功績を残しました。尚、清水寺の南東(山科区)に坂上田村麻呂の墓があります。
延暦17年(798)仏殿が建てられ、本尊の脇侍に毘沙門天と地蔵菩薩が置かれました。
延暦24年(805)太政官符より寺地を賜り、弘仁元年(810)には、嵯峨天皇から「北観音寺」の宸筆を賜り、国家鎮護の道場となりました。
参考①に"清水寺には、開山延鎮上人門弟系統と清水寺創建者・坂上田村麻呂将軍の子孫(清水寺俗別当になった者)系統の二大系統の縁起があったと思われる。"とあるように、編纂者によって創建の年や出来事など、内容に違いが出ます。現在は、この2つの系統を合わせたものが縁起として広く伝わっています。
成就院
成就院
文明元年(1469)応仁の乱の兵火により、伽藍を消失。再興の費用を捻出するため、諸国勧進(広く資金を募ること)が行われます。
中でも時宗の僧「願阿弥(がんあみ)」は、再建に大きく貢献したため、願阿弥が興福寺から与えられた清水寺の勧進僧の資格が「本願職」として願阿弥の後継者が世襲することになります。後にその資格は、"堂塔・仏像を建造・維持管理し、寺院財政と渉外(寺領・門前町の支配を含む)を掌る役職"(参考①)となりました。
また、後継者は願阿弥の住坊も引継ぎ、やがて住坊は塔頭「成就院」となり、近世では清水寺三職の一つとして栄えることになります。尚、幕末において、尊皇攘夷派の僧であった月照とその弟の信海は、この成就院の住職でした。
大正3年(1914)興福寺貫主の大西良慶が清水寺の貫主を兼任、成就院を住房としたことで、本坊となり、現在に至ります。
徳川家光による再建
(手前から)仁王門・西門・三重塔
寛永6年(1629)成就院から出火し、伽藍の多くを失います。焼失を免れた、馬駐・仁王門・鐘楼・子安塔・春日社を除き、本堂を含めた現存する建造物の多くは、寛永年間に徳川3代将軍家光によって再建されたものです。
尚、火元の成就院は、寛永16年(1639)東福門院(※)の寄進によって再建されました。
- (※)
- 徳川秀忠の娘で、後水尾天皇の中宮となります。家光の実妹。寛永6年(1629)後水尾天皇が譲位し、娘の興子内親王が天皇(明正天皇)に即位されました。
宗派
清水寺は、長らく奈良の興福寺に属する法相宗の寺院で、平安中期から明治18年(1885)までは真言宗を兼宗していました。明治5年(1872)教部省の命により真言宗の所轄となりますが、同18年に法相宗へ復帰。昭和40年(1965)大西良慶が北法相宗を開宗し、法相宗から独立しました。
今年の漢字
平成7年(1995)より、公益財団法人日本漢字能力検定協会が"漢字の持つ素晴らしさや奥深い意義を伝えるための啓発活動の一環として始めたもので、毎年年末に一年の世相を表す漢字一字を全国から募集"(参考⑤)し、最も多い募集の漢字を貫主の森清範の揮毫により発表しています。
発表日の12月12日は、同協会が制定した記念日(漢字の日)で、「いい(1)字(2)一(1)字(2)」の語呂合わせに因みます。(「今年の漢字」は同協会の商標です。)
本堂と舞台
本堂は、寛永10年(1633)に再建された、正面約36メートル、側面約30メートル、高さ18メートルほどの仏殿です。また、十一面千手観音菩薩を本尊とする観音堂であることから、普門閣、大悲閣とも呼ばれています。
急な斜面に迫り出すように建てられており、この建築方法を「懸造(かけづくり)」いいます。突き出た部分は舞台といい、古くから舞楽など芸能を奉納する場所として利用されています。
舞台は、面積約190平方メートル、総檜板張りです。支えるケヤキの柱は、最長12メートルあり、ケヤキの貫(垂直材間に通す水平材)を縦横に通して楔(くさび)で組み固めることで、釘を一切使わずに構築されています。(舞台と柱の接合部分には、金具による補強が見られます。)
清水の舞台から飛び降りる
江戸時代、本堂の舞台から降りると願いが叶うという信仰が庶民の間で広まり、清水寺の成就院が記した『御日記』の1694年から1864年までのうち、残されている148年分の飛び降りに関する記録によると、引き留め・未遂を含め235件の飛び降りが発生しました。(うち娘1人は2回飛び降り、2度とも生存)
男女比は7対3(※)、年齢は10代から20代が全体の5割強、最高齢は80歳の男性。出身地は京都が7割を占め、武家や公家にはみられず、そのほとんどが庶民によるものでした。全体の生存率は85.4パーセントと高いですが、60代以上は皆死亡しています。(引き留め・未遂を含めているので、実際に舞台から飛び降りた時の生存率は、これより低くなる。)
- (※)
- 参考①と⑥で数値が逆になっているので注意が必要
明治5年(1872)京都府は、迷信による愚行として舞台からの飛び降りを禁止する布令を出し、"元禄以来、京都町奉行に許可されなかった竹矢来が舞台欄干の外周りに張めぐらされ、「舞台飛び下り」は影をひそめることとなった。"(参考①)
参考文献
- 横山正幸『京都清水寺さんけいまんだら』(京都 清水寺)
- 平凡社『京都・山城寺院神社大事典』
- 森清範・田辺聖子『新版 古寺巡礼 京都 第26巻 清水寺』(淡交社)
- 『清水寺 Kyoto Kiyomizu dera Temple』(便利堂)
- 普及啓発・支援活動 | 事業・活動情報 | 公益財団法人 日本漢字能力検定協会
- 清水寺 よだん堂 | 音羽山 清水寺