仁和寺の見どころ・解説
金堂
仁和寺の本堂で、本尊の阿弥陀三尊を安置しています。
現在の金堂は、慶長年間(1596-1615)に造営された御所の紫宸殿を移築したもので、"屋根を瓦葺に変え西庇を取り除いた以外、紫宸殿の外観を残し"(参考①)、現存する紫宸殿では最古のものとなっています。
御影堂(みえどう)
現在の御影堂は、慶長年間(1596-1615)に造営された御所の清涼殿の部材を使い、寛永年間(1624-44)に再建したものです。真言宗の開祖空海(弘法大師)、寛平(宇多)法皇、第2世性信(しょうしん)の像をお祀りしています。
- (※)
- 蔀戸(しとみど)の金具なども清涼殿のものを利用していますが、"部材には清涼殿のものを示す墨書があるが建物自体は大幅に変えられている。"(参考①綾村宏)
- "昭和の屋根葺替で垂木に「せいやうでん」と墨書のあるのが発見された。"(参考①)
観音堂
宇多法皇の第3皇子、真寂法親王(※)が夢の中で空海からお告げを賜り、延長6年(928)に創建したのが観音堂の始まりとされています。
現在の観音堂は、寛永18年から正保元年の間(1641-1645)に再建されたもので、千手観音菩薩を本尊とし、相承の最高儀式「伝法潅頂」などが執り行われています。
- (※)
- 北野天満宮の祭神「菅原道真」の娘婿で、出家前は斉世親王(ときよしんのう)といいました。
昌泰4年(901)道真が大宰府に左遷されると出家し、真寂(しんじゃく)と名乗ります。
二王門
高さ約18.7メートル、阿吽の二王を安置する和様の二重門で、寛永14年(1637)から正保元年(1644)にかけて建立されました。
経蔵
江戸初期の再興に活躍した顕証によって造営が計画され、寛永から正保年間(※)に建立されました。この時期に建てられた他の堂宇と異なり、建物外観は禅宗様で統一されています。(参考①)
中央に八角の回転式の輪蔵(書架)が設けられ、各面に96箱、総計768の経箱を備えおり、その中には、天海版の一切経が納められています。
- (※)
- (1624-1644)経蔵に掛けられている説明, (1644-1648)現地に設置されている説明, (1641-1645)国指定文化財等データベース
九所明神(くしょみょうじん)
仁和寺の初代別当である幽仙が伽藍を守護するため、各神社から御祭神を勧請したものを起源としています。
水掛不動尊と菅公腰掛石
所願成就、幼児の難病平癒に霊験あらたかで、像(不動明王)に水を掛けて祈願することから水掛不動尊と呼ばれています。
像の手前にある菅公腰掛石は、菅原道真が大宰府に向かうときに、宇多法皇のいる仁和寺に立ち寄り、その時に座ったとされる石です。
中門
寛永14年(1637)から正保元年(1644)にかけて建立された八脚門です。二王門と金堂の間に位置し、建築様式は二王門と同じ和様で統一されています。
南西エリア
本坊(御殿)がある南西の区画は、歴代門跡が住まわれていた場所でもあります。
明治20年(1887)火災により、御殿の大部分が失われたため、現在の御殿はそれ以降に再建されたものとなっています。
白書院
明治23年(1890)仮宸殿として造営されたのが、現在の白書院です。
松の襖絵は、昭和12年(1937)福永晴帆によって描かれたものです。展示スペースとして使用されていることもあります。
黒書院
花園にあった旧安井門跡の寝殿を移築したもので、明治42年(1909)に完成しました。
襖絵は昭和6年(1931)宇多天皇一千年・弘法大師一千百年御忌の記念事業として、堂本印象によって描かれたものです。
霊明殿
明治44年(1911)の建立で、本尊の薬師如来坐像と歴代門跡の位牌を安置しています。
宸殿
大正2年(1913)竣工の宸殿は、上段の間、中段の間、下段の間の三室で構成されています。近年では、将棋の竜王戦の対局室として利用されています。
飛濤亭(ひとうてい)
仁和寺第28世深仁法親王(※)の異母弟である光格天皇(1771-1840)の遺愛と伝わる茶室です。宸殿から北東の眺めに映る茅葺屋根の建物で、北庭の築山にあります。(通常非公開)
- (※)
- 閑院宮典仁親王の第2皇子(1759-1805)
参考文献
- 佐藤令宣・草野満代『新版 古寺巡礼 京都 第22巻 仁和寺』(淡交社)
- 真言宗御室派総本山 仁和寺