仁和寺の歴史
仁和寺は、真言宗御室派の総本山の寺院です。
現在は、中門と金堂を繋ぐ参道を境にして、西側一帯に植えられている背丈の低い遅咲きの「御室桜」が有名です。寺名は、光孝天皇の即位によって改元された元号「仁和(にんな)」から付けられました。
創建
仁和寺の歴史は、仁和2年(886)光孝天皇が発願された西山御願寺の造営に始まります。完成は、光孝天皇が翌年の8月に崩御されたため、次代の宇多天皇(光孝天皇の第7皇子)の御代となります。寺名は、光孝天皇の即位によって改元された元号「仁和」から「仁和寺」と名付けられ、仁和4年(888)8月には、金堂で供養が執り行われました。(※)
- (※)
- 『日本紀略』に仁和3年8月に亡くなった光孝天皇の一周忌が西山御願寺で催されたとあり、開催時期がほぼ同じであることから、西山御願寺が仁和寺であるとされています。(参考①)
宇多法皇由来の御室と門跡
寛平9年(897)宇多天皇は醍醐天皇に譲位され、その2年後、出家されて仁和寺に入ります。
延喜4年(904)境内に法皇(※)の御所が造営されます。これを御室(おむろ)と呼び、仁和寺一帯の地名にもなっています。
- (※)
- 天皇を譲位された後の尊号は、太上天皇(上皇)。上皇が出家されると太上法皇(法皇)。法皇の尊号が使われたのは、このときが最初といわれており、年号から寛平法皇と呼ばれました。
御室に入った宇多法皇は初代門跡に就きます。門跡とは、皇室関係者が務める住職のことで、仁和寺はその先駆けとして、慶応3年(1867)純仁法親王(※)が勅命により還俗(僧になったものが俗人に戻ること・げんぞく)するまでの間、30代続きました。
- (※)
- 明治元年(1868)明治新政府から征討大将軍に任じられるなど、軍人として数々の要職を歴任しています。明治3年に東伏見宮、明治15年(1882)には小松宮に改称、名を彰仁としました。
応仁の乱による衰退
応仁の乱においては、応仁2年(1468)9月、仁和寺に陣を敷いていた西軍に対し、東軍が攻撃を加えた結果、仁和寺は御室を含む伽藍を失い、衰退します。
徳川家光の時代に再興される
寛永11年(1634)第21世覚深法親王は、上洛していた徳川3代将軍家光に仁和寺再建の陳情をします。家光はこれを許し、金20余万両を寄進。また、京都御所の建て替えを行い、慶長年間(1596-1615)に造営した旧殿舎を仁和寺へ移築することも決まりました。
金堂
『一音坊顕証日次記』によると、紫宸殿、清涼殿、御常御殿を賜り、紫宸殿は金堂、清涼殿は御影堂、御常御殿は宸殿に改められました。現存する二王門、五重塔、観音堂、経蔵などもこの時期に建てられ、伽藍の造営は、正保3年(1646)に完了しました。
境内に桜が植えられる
冬の御室桜と五重塔
再建後から境内に桜が植えられるようになったとされ、"寛文年間(1661-73)頃には後水尾上皇をはじめとする宮廷関係者が観桜に興じたことが寺誌に"(参考①)記されています。現在、中門と金堂を繋ぐ参道を境にして、西側一帯に桜が植えらていますが、遅咲きで背丈が低いという特徴があり、「御室桜」と呼ばれています。そして、文献には記されていませんが、御室桜はこの頃に植えられた桜が起源であると伝えられています。
火災により御殿の大部分を失う
本尊の薬師如来坐像と歴代門跡の位牌を安置
明治20年(1887)火災により、御殿の大部分が焼失してしまい、同23年に仮宸殿として現在の白書院が造営されます。同42年(1909)に黒書院、同44年に霊明殿(上写真)、大正2年(1913)に勅使門、同3年には宸殿(下写真)が建てられました。
参考文献
- 佐藤令宣・草野満代『新版 古寺巡礼 京都 第22巻 仁和寺』(淡交社)