八坂神社の歴史・見どころ
八坂神社は、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を主祭神とする神社です。
慶応4年(1868)「八坂神社」と改称するまでは「感神院」、または「祇園社」といい、インド祇園精舎の守護神「牛頭天王(ごずてんのう)」をお祀りしていました。「祇園神」「祇園大明神」とも呼ばれ、神道と仏教が結びついた神仏習合の思想ではスサノオと同一の神とみなしていました。また、その思想の一つである本地垂迹(※)では、スサノオの本地仏を薬師如来としていました。
- (※)
- (ほんじすいじゃく)神道の神々(垂迹)は、仏教の仏(本地)が人々を救うための仮の姿であるというもの。
八坂神社の歴史
その起源は、
- 斉明天皇2年(656)高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が、新羅国の牛頭山に降臨した素戔嗚尊をこの地に祀った。(『八坂郷鎮座大神之記』)
- 貞観18年(876)南都の僧円如が建立した観慶寺が始まりで、堂には薬師千手などの像が祀られ、その年の6月14日、天神(祇園神)がこの地(祇園林)に降臨した。(『祇園社家条々記録』)
- 貞観11年(869)常住寺の僧円如が播磨国広峰に降臨した牛頭天王をこの地に遷座した。
- 天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)がこの地を賜り、神の祭祀の場所としたことで、それが感神院の始まりとなった。
など諸説あります。
当初、祇園社は興福寺に属していましたが、天徳3年(959)同じ興福寺に属する清水寺と争いが生じ、天延2年(974)祇園社は天台宗に改宗しました。
永保元年(1081)行円(※)が感神院執行となり、明治政府により神職の世襲制が廃止されるまでの間、その子孫が感神院執行の職を継いでいきました。
- (※)
- 紀百継は渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」の娘を妻にして八坂造家を継承し、行円はその一族の後裔としている。(参考①)
明治初年の神仏分離令により坊舎を取り壊すなど仏教色を排除。現在の太田社の辺りにあった薬師堂に安置されていた薬師如来像などは大蓮寺に移管されました。
祇園祭
平安遷都後、疫病が度々発生したことから、人々はその原因を怨霊や祟り神の仕業と考え、疫病を鎮めるための催し「御霊会(ごりょうえ)」が行われました。
「祇園祭」の前身である「祇園御霊会」は、貞観11年(869)疫病が発生し、卜部日良麻呂が平安京の庭園「神泉苑」に当時の国の数である66本の鉾を立て、祟り神とされた牛頭天王を祀り、その災厄が鎮まるよう祈願したのが始まりとされています。
現在の祇園祭は、毎年7月1日の吉符入りの行事から31日の疫神社夏越祭の神事まで1ヶ月に渡り、各種行事や神事が行われています。
本殿と祭神
本殿と拝殿(八坂造)
承応3年(1654)徳川4代将軍家綱によって再建された本殿と、明治初年に造られた拝殿を屋根で覆った造りになっており、これを祇園造(八坂造)と呼んでいます。
祭神
- 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
- イザナギがイザナミのいる黄泉の国から戻り、穢れを払う際に「アマテラス」、「ツクヨミ」とともに生まれた三柱の神の一柱です。
- 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)・神大市比売命(かむおおいちひめのみこと)・佐美良比売命(さみらひめのみこと)
- スサノオの妻たちです。
- 八柱御子神(やはしらのみこがみ)
- スサノオの8人の子の総称です。
八島篠見神(やしまじぬみのかみ)・五十猛神(いたけるのかみ)・大屋比売神(おおやひめのかみ)・抓津比売神(つまつひめのかみ)・大年神(おおとしのかみ)・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)・大屋毘古神(おおやびこのかみ)・須勢理毘売命(すせりびめのみこと) - 稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)
- クシナダヒメの両親(アシナヅチ・テナヅチ)の総称です。
スサノオと八俣の大蛇
記紀(日本最古の歴史書『古事記』・最古の正史『日本書紀』)の八俣の大蛇の話
高天原(たかまのはら)を追放され、出雲に降り立ったスサノオは、泣いている娘と老夫婦に出会いました。彼らの話によると、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)という頭が8つある大蛇が毎年娘を食べるので、8人いた娘がクシナダヒメだけとなってしまったといいます。これを聞いたスサノオはクシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチを退治し、クシナダヒメを妻としました。
また、スサノオは、ヤマタノオロチの尾から出てきた剣をアマテラスに献上しますが、これが後に三種の神器の一つ「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」となります。
八坂神社の見どころ
参考文献
- 平凡社『京都・山城寺院神社大事典』
- 八坂神社社務所『八坂神社由緒略記(改訂版)』(平成二十五年第二版発行)
- 『都名所図会』