京都御所の歴史
建礼門・承明門・紫宸殿
京都御所とは、桓武天皇により平安遷都(794)が行われた際に造られた、天皇の住まいを中心とした建物群「内裏(だいり)」のことで、禁中(きんちゅう)・禁裏(きんり)などと呼ばれていました。現在でいうところの「皇居」にあたります。
内裏は、当初、現在の場所より約2キロメートル西にあり、内裏の周辺には「朝堂院(ちょうどういん)」(※1)、「豊楽院(ぶらくいん)」(※2)といった庁舎が置かれ、全体を築地(塀)で囲んでいました。この囲まれた区域を「大内裏(だいだいり)」といいます。
- (※1)
- 大内裏の中心にあり、正殿の大極殿(だいごくでん)では即位式といった重要な儀式が執り行われていました。(大極殿は、千本丸太町交差点付近にあったと考えられています。尚、朝堂院の一部を縮小して復元したものが平安神宮です。)
- (※2)
- 朝堂院の西に位置し、饗宴(客をもてなすための宴会)などに用いられていました。
豊楽院は康平6年(1063)、朝堂院は治承元年(1177)の焼失からは再建されず、次第に大内裏は荒廃していきます。内裏も嘉禄3年(1227)の焼失以降は、再建されませんでした。
内裏の再建中は公家の邸宅を仮の内裏として利用しました。これを「里内裏(さとだいり)」といい、現在の京都御所は、その一つ「土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)」(※)の後身にあたります。
元弘元年(1331)北朝の光厳天皇はこの里内裏で践祚され、北朝の皇居となります。
明徳3年(1392)南朝の後亀山天皇は、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、自ら退位することで南北朝は合一し、その後、明治2年(1869)明治天皇が東京に遷られるまでの間、京都御所が皇居として使用されました。
- (※)
- この場所は大内裏から近く、古くから多くの公家邸宅がありました。豊臣秀吉が天下を取ると内裏の周辺に公家を住まわせて公家町が作られます。宝永5年(1708)内裏や周辺の建物が焼失したのを契機にして、"内裏の南西地域にあった町家を鴨川東の二条川東(左京区)などに移転させて,跡地に公家屋敷を建てました。この頃に現在の京都御苑の規模が定まった"(参考2)とされています。
現在の京都御所は、老中の阿部正弘により安政2年(1855)に再建されたもので、寛政期の造営を踏襲しています。寛政期の造営とは、寛政2年(1790)老中の松平定信によって造営された内裏のことで、定信は、裏松固禅の『大内裏図考証』に従い、承明門、紫宸殿、清涼殿などの一部を平安時代の様式で建造しました。尚、それらは嘉永7年(1854)の京都大火によって焼失し、その後に再建されたのが現在のものです。
紫宸殿(ししんでん)
紫宸殿と南庭
即位式、節会、朝賀などといった、国家の重要な儀式(大礼)が執り行われていた、内裏の中心をなす建物(正殿)です。江戸城が皇居となった後も、大正・昭和の即位の礼は京都で執り行われました。
総檜造りの建物で、正面の幅は約33メートル、側面は約23メートルあり、檜皮葺の屋根を含めると、正面は約44メートル、側面は約33メートルにも及びます。
御学問所(おがくもんじょ)
御所再建(1855年)に造営された歴史的に貴重な建物
御読書始や和歌の会などの学芸に関わる儀式や、対面の場にも使用されました。
天皇を中心とする新政府の樹立を宣言した「王政復古の大号令」が発せられた場所です。
小御所(こごしょ)
昭和33年(1958)再建
東宮御元服、立太子の儀式、和歌御会始め、御楽始めなどの儀式が執り行われていた、紫宸殿の東北に建つ建物です。江戸時代には幕府の使者や所司代の拝謁もここで行われました。
慶喜慶喜に内大臣の辞職と幕府領の返上(辞官納地)を命じることを決めた場所です。
春興殿(しゅんこうでん)
大正4年(1915)造営
三種の神器の一つ「八咫鏡(やたのかがみ)」の形代(模造品)を安置していた所です。
築地塀と標高差
左は南東(建春門付近)、右は北東(猿ヶ辻)
京都御所は南北451メートル、東西249メートルの築地塀(ついじべい)で囲まれていますが、京都盆地が南に向かって標高が低くなっているため、北端と南端で2.4メートルほどの標高差があり、その差を石積みで補っています。
仙洞御所と大宮御所
寛永7年(1630)譲位された後水尾上皇の居所となる仙洞御所が御所近郊(南東)に造られ、仙洞御所に隣接する場所(北西の一画)には、中宮であった東福門院ための大宮御所が造営されました。
参考文献
- 《京都》御所と離宮の栞 - 京都御所
- 文化史07 内裏から京都御所へ - 京都市
- 『京都御所』(財団法人 伝統文化保存協会)