京都御苑の歴史
堺町御門
京都御苑とは、京都御所、大宮・仙洞御所、京都迎賓館やその外苑の国民公園のことです。
この場所は、延暦14年(794)桓武天皇が遷られた平安宮の内裏から東に位置し、距離も近いことから、藤原氏といった有力公家をはじめとした公家の邸宅がありました。現在の京都御所は、内裏の再建中に公家の邸宅の一つを仮の内裏として利用したことに始まります。
豊臣秀吉が天下を取り、御所周辺に公家を住まわせたことを契機にして、江戸時代には、御所を取り囲むように公家町が形成されました。しかし、明治2年(1869)明治天皇が東京に遷られたことで、大小140以上あった屋敷も空家となり、公家町は荒廃していきます。これに心を痛めた明治天皇は、京都御所の保存や旧観維持の御沙汰(※)を出し、明治10年(1877)から、京都府による「大内保存事業」が実施されます。
- (※)
- "御所を保存し,ながく旧観を失わぬために,明治10年(1877)より21年(1888)まで毎年4,000円を給するので,これをもって,御所に接近した地所をおいおい買収し,まず御所に対し火災延焼 のおそれのないようにすること。またその事務を京都府に委任するというものである。"(参考③)
その事業の内容は、屋敷の撤去、門の移設、"境界を北は今出川通,西を烏丸通,東は寺町通,南を内椹木町通(うちのさわらぎちょうどおり)見通し(後に丸太町通まで拡大)に設定して,その周囲に石垣を築き,"空地は芝生にしたり樹木を植えるといったものでした。
明治16年(1883)京都御苑の管轄が宮内省となり事業は終了しますが、御苑の整備は、同省によって引き続き行われました。
建礼門前大通りから京都御所を望む
大正4年(1915)大正天皇の即位礼に際し、"建礼門前大通りの拡幅改良等の改修工事が行われ、ほぼ現在の京都御苑の姿が整いました。"(参考②)上の写真の建礼門前大通りは、大内保存事業により出来たものです。
GHQ占領下の昭和22年(1947)京都御苑は、新宿御苑、皇居外苑とともに、国民公園とすることが閣議決定され、昭和24年(1949)厚生省の管理運営のもと、国民に開放されました。
昭和46年(1971)環境庁が発足すると、国民公園の管理は環境庁に移管されます。平成13年(2001)の中央省庁再編により環境庁が改組され、現在は新たに設置された環境省が国民公園の管理を行っています。
蛤御門(新在家御門)
宝永5年(1708)の「宝永の大火」(※)までは、「新在家御門(しんざいけごもん)」といい、開かずの門とされていましたが、大火によって開門されたのを「蛤を焼いて口が開く様子」に例え、「蛤御門(はまぐりごもん)」と呼ばれるようになりました。
- (※)
- 天明8年(1788)の「天明の大火(京都大火)」からという説もあります。
現在、烏丸通に面し、西向きに建てられていますが、これは大内保存事業によって移設されたためで、以前はもっと内側(東)にあり、南向きに建てられていました。
蛤御門(禁門)の変
元治元年(1864)京都で起きた、尊王攘夷派の長州藩と薩摩・会津を中心とした公武合体派との武力衝突のことで、特に蛤御門周辺での戦闘が激しかったため、「蛤御門(禁門)の変」と呼ばれています。禁門とは、禁裏(御所・皇居)の門のことです。