醍醐寺の歴史

如意輪堂
『醍醐寺縁起』によると、真言宗の僧である聖宝は笠取山で翁(※)と出会い、翁からこの地を授け守護するので、密教を広め、衆生を救済するように告げられます。また、翁は聖宝を泉へと導くと、その水を飲み「嗚呼、醍醐味かな」と言葉を残して姿を消しました。
貞観14年(872)聖宝は山上に庵を作り、准胝・如意輪の両観音像を作り始めます。貞観16年(874)各観音を納める「准胝堂」「如意輪堂」を建立し、元慶寺の遍昭を導師として、落慶・開眼供養が行われました。
醍醐とは、五段階の味(五味)の一つで、乳を精製する過程(1.乳 2.酪 3.生酥 4.熟酥 5.醍醐)において、最後に得られる最も美味なものとされています。涅槃経には、醍醐と同じように涅槃経が最後に得られる最高の教えであると例えとしている記載があり、"聖正尊師が笠取山を醍醐山とし、寺名を醍醐寺と称したのは、最高の法城という深い意味があったことと推察されるのである。"(参考①)

薬師堂は、保安2年(1121)の再建で上醍醐において最古の建造物
聖宝は修験道の僧であったため、醍醐寺は修験者の霊場として発展していきます。延喜7年(907)には、醍醐天皇により勅願寺と定められ、薬師堂、五大堂が建立されました。

江戸時代まで御影堂と呼ばれていた開山堂
聖宝の死後、弟子の観賢は聖宝の御影を祀るために御影堂を建立し、延喜19年(919)醍醐寺第1世座主に就きます。尚、真言宗の開祖である空海の諡号「弘法大師」は、観賢の奏上により、醍醐天皇が空海へ贈られたものです。
山頂の伽藍が整うと山の麓の宿坊にも伽藍の造営が計画され、延長4年(926)醍醐天皇の発願により釈迦堂が建立されました。延長8年(930)には醍醐天皇が崩御されますが、穏子皇后が主催した四十九日の法要は、この釈迦堂で行われました。

創建当時のもので、高さは約38メートル、そのうち相輪が13メートルほどある
延長9年(931)醍醐天皇の冥福を祈るために五重塔の建設が計画されますが、事業の中心人物であった第3皇子の代明親王の薨去や、他の伽藍の建設を優先させたことにより、完成は村上天皇の御代の天暦5年(951)となりました。
このように、醍醐寺は山の伽藍と麓の伽藍が存在することから、山上の伽藍は「上醍醐」、麓を「下醍醐」と呼ばれています。

醍醐天皇の発願により建立された釈迦堂を起源とする金堂
文明2年(1470)の兵火により、下醍醐では五重塔を除く全ての伽藍を失い、長らく荒廃しますが、第80世座主の義演(※)の時代、豊臣秀吉による醍醐の花見を契機にして復興していきます。五重塔の修復、釈迦堂(現在の金堂)の再建、 金剛輪院を拡張・整備して三宝院とするなど、これらは秀吉の命により行われました。秀吉は花見の5ヶ月後に亡くなりますが、子の秀頼も如意輪堂、五大堂、開山堂、西大門を再建するなど、醍醐寺の再興は豊臣家の貢献がとても大きいものでした。
- (※)
- 五摂家の二条晴良の次男として生まれたため、将軍足利義昭の猶子となり、12歳で入室、14歳で得度し、天正4年(1576)19歳で醍醐寺座主。秀吉の関白就任の翌日、准后の宣下を受けました。
秀吉が醍醐寺を積極的に援助した要因の一つとして、義演の兄との関係が挙げれます。兄の二条昭実は、天正13年(1585)2月に関白になりますが、わずか5ヵ月で秀吉に譲るなど、秀吉の意向に沿った対応をしており、血族である義演が秀吉から便宜を受けることができたと考えられています。尚、秀吉の死後、秀吉の側室であった三の丸殿(織田信長の娘)は、昭実の継室として迎えられました。
醍醐の花見

槍山(豊太閤花見跡)
慶長3年(1598)3月15日に豊臣秀吉が催した花見の宴のことです。この花見のために、新たに醍醐山中腹への道を作り、沿道には桜の木を植えられ、茶屋や出店が並び、槍山と呼ばれた平地には、花見御殿が建てられました。尚、三宝院の純浄観は、花見で使用した建物を移築したものといわれています。
花見の前日、義演は秀吉から「来年は上皇・天皇の行幸を仰いで花見をする予定である」と聞かされたと日記に残していますが、同年8月18日、秀吉は伏見城でその生涯を終えました。
三宝院
永久3年(1115)第14世座主の勝覚によって創建された、塔頭「三法院」を起源とし、歴代座主の住房として醍醐寺の中心的な存在でした。度重なる火災によって再建されなくなり、その後は塔頭「金剛輪院」がその役割を担い、現在の三宝院は、その金剛輪院を拡張・改修したものです。
三宝院庭園

秀吉の構想を基にして作庭され、秀吉亡き後は、義演によって改良が重ねられました。
写真右に見える巨石は「藤戸石」と呼ばれる名石で、織田信長が細川氏綱の旧邸から旧二条城に運び、さらに秀吉によって聚楽第、そして花見の後に三宝院へ運ばれ、庭園の中央に配されました。
観音堂(西国第十一番札所)と大伝法院

弁天堂と林泉
昭和5年(1930)元実業家で多額納税者議員だった山口玄洞の寄進により、観音堂を中心にして弁天堂及び林泉、鐘楼、日月門、阿闍利寮、伝法学院等(※)が造営されました。これを総称して大伝法院といいます。
尚、観音堂は元々大講堂と呼ばれ、僧侶育成のために使われていました。平成20年(2008)西国三十三所の第十一番札所であった上醍醐の准胝堂が消失すると、准胝堂の役割も引継ぎ、観音堂と呼ばれるようになりました。
- (※)
- 「等」という表記は公式サイトで使われていて、現地の案内板には「地蔵堂」となっています。尚、観音堂周辺に地蔵堂を確認する事が出来ませんが、上醍醐には地蔵堂と呼ばれる建造物があります。(関係は不明)

観音堂(旧大講堂)
上醍醐までの所要時間
登山道の入口となる女人堂から山頂(標高450メートル)の開山堂まで(約2.6キロメートル)、徒歩60分ほどかかります。
尚、准胝堂(跡)まで(約2.2キロメートル)徒歩51分、その中間に位置する不動の滝まで(約1.1キロメートル)徒歩21分となっています。
入山無料です。(元々無料だったのですが、准胝堂の焼失後に入山規制、入山料を徴収するようになり、2025年4月の入山時には無料に戻っていました)
参考文献
- 佐和隆研 『醍醐天皇と醍醐寺』(総本山醍醐寺)
- 楠戸義昭『醍醐寺の謎』(祥伝社)
- 平凡社『京都・山城寺院神社大事典』