閑院宮邸跡

閑院宮邸跡 収納展示館

収納展示館

閑院宮家の邸宅は、明治10年(1877)同家が東京に移って以降、華族会館や裁判所などとして使用されていました。明治16年(1883)宮内省京都支庁が設置され、その邸宅跡に建物(現在の収納展示館)が新築されたとの記録があります。また、"建設決定から竣工まで三ヶ月足らずの緊急工事であった為、当時存在していた閑院宮邸の建物や材料が利用されたことが推測されています。"(参考②)

尚、創建当初の建物は、天明8年(1788)の天明の大火(京都大火)で消失しています。

閑院宮(かんいんのみや)

閑院宮は、新井白石の献策を契機にして創設された宮家です。

新井白石は、徳川6代将家宣(いえのぶ)に重用され幕政を補佐した学者で、皇統が断絶することを危惧して、当時3つだった世襲親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮)に新たな宮家を創設することを家宣に提言します。
これを受けて家宣が朝廷に働きかけた結果、宝永7年(1710)東山天皇の第6皇子である秀宮を初代とする宮家の創設と幕府からは千石の所領が与えられることが決まります。

享保3年(1718)秀宮は「閑院宮」の宮号と直仁親王の名を賜り、閑院宮は他の三宮家とともに四親王家と呼ばれるようになりました。

光格天皇(閑院宮家から即位した天皇)

安永8年(1779)後桃園(ごももぞの)天皇が22歳の若さで崩御されたため、子はその年に生まれた欣子(よしこ)内親王しかいませんでした。

朝廷は、閑院宮の2代目の典仁(すけひと)親王の第6皇子師仁(もろひと)親王を養子として迎え入れ、典仁親王は、名を兼仁(ともひと)と改め、9歳で天皇(光格天皇)に即位されました。尚、欣子(よしこ)内親王は、寛政6年(1794)光格天皇の中宮となっています。

文化14年(1817)光格天皇は、典侍の勧修寺婧子(ただこ)との間に生まれた、第4皇子の恵仁(あやひと)親王に譲位し、即位された仁孝(にんこう)天皇より太上天皇の尊号を贈られます。天保11年(1840)光格上皇は、70歳で崩御されました。

参考文献
  1. 『京都御苑ニュース』(一般財団法人 国民公園協会 京都御苑)
  2. 蘇る 京都御苑『閑院宮邸跡』(PDF)国土交通省 近畿地方整備局
  3. 京都御苑 閑院宮邸跡