神護寺の歴史
神護寺は、天応元年(781)和気清麻呂が光仁天皇の勅願により建立した、愛宕五坊の一つ「高雄山寺」を起源とする寺院です。清麻呂は、同時期に国家安泰を祈願する「神願寺」を河内国に建立しますが、天長元年(824)神願寺をこの地に移して高雄山寺と合併させたのが、「神護寺」となります。
五大堂と毘沙門堂
宇佐八幡神の神託
女帝の孝謙上皇は、淳仁天皇に譲位し、政治は藤原仲麻呂に任せていましたが、病に伏せられると、献身的に尽くした僧「道鏡」を寵愛し、政治的にも重用するようになります。
次第に孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・藤原仲麻呂とで対立するようになり、天平宝字8年(764)仲麻呂は道鏡の排除を計りますが、失敗。仲麻呂は死罪、淳仁天皇は廃され流罪となり、孝謙上皇は再び天皇(称徳天皇)に即位し、道鏡の影響力がさらに強まる結果となりました。
神護景雲3年(769)大宰主神の中臣習宜阿曾麻呂は、宇佐八幡神から「道鏡が皇位につけば天下太平になる」との神託を受けたと奏上します。称徳天皇は、その神託を確かめるため、和気広虫を宇佐八幡宮に向かわせようとしますが、女性であり長旅も困難であったため、姉の代わりに清麻呂が派遣されました。
清麻呂が持ち帰った神託は、道鏡の皇位継承を否定するものであったため、称徳天皇や道鏡の怒りを買い、清麻呂は大隅国、姉の広虫は備後国へ流罪となります。
翌年、称徳天皇が崩御し、光仁天皇が即位されると、道鏡は下野国の薬師寺別当に任じられ失脚、清麻呂と広虫は流罪地から戻され復職しました。尚、清麻呂が受けた神託にはもう一つあり、それは「国家安泰のために一寺を建てて欲しい」というものでした。その神託により建立されたのが「神願寺」で、場所は『神皇正統記』によると河内国とされています。
平安遷都
清麻呂は桓武天皇にも仕え、平安遷都を進言しています。延暦13年(794)平安京に遷都、同15年、清麻呂は平安京造営の最高責任者である造宮大夫に任じられ、同18年2月、67歳で亡くなりました。尚、1月には姉の広虫が亡くなっています。70歳でした。
清麻呂の没後、山内に墳墓が営まれた
最澄
延暦21年(802)清麻呂の長男広世(弘世)は、当時学僧だった最澄を法華経の講師として高雄山寺に招き、その存在を世に知らしめます。
延暦23年(804)最澄は留学期間1年の還学生として入唐し、天台数学・戒・禅・密教の思想を学んで、翌年6月に帰国。同年9月には、高雄山寺で我が国初となる灌頂壇を開きました。
空海と神護寺
空海の住房を起源とする大師堂
空海は、奈良の久米寺に納められていた大日経と出会いますが、この密教経典を理解することが出来ず、また教えてくれる師が日本にいなかったため、入唐を決意します。
延暦23年(804)空海は、最澄と同じ遣唐使船団で唐を目指します。全4隻のうち、空海は第一船、最澄は第二船に乗り、唐に渡れたのはこの2隻だけでした。空海は、およそ2年の滞在で密教を修め、大同元年(806)大宰府に着きますが、留学期間20年の留学生として入唐していたため、都に入ることは許されませんでした。そこで空海は留学の成果をまとめ、朝廷に提出しました。
大同4年(809)高雄山寺に入り、弘仁2年(811)乙訓寺に移りますが、翌年には高雄山寺へ戻り、最澄や清麻呂の五男「真綱」・六男「仲世」などに灌頂を授けました。
弘仁7年(816)に高野山、弘仁14年(823)には東寺が下賜されます。
空海は東寺を教王護国寺と改め、真言密教の寺院にすると、天長元年(824)神願寺をこの地に移し、高雄山寺と合併させ「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と改称し、同じ真言宗の寺院としました。
文覚による再興
久安5年(1149)の火災により、神護寺は急速に衰退していきます。(『高雄山神護寺縁起』)参考①には、"久安年間に、鳥羽法皇の怒りに触れて全山壊滅の状態"とありますが、参考②によると、"そういった記録はなく真相は不明"としています。
仁安3年(1168)文覚は、山内に草堂を建てて薬師三尊を安置して再興を祈願しますが、後白河法皇に再三の勧進が嫌われ、強訴の罪で伊豆に流罪となります。そこで文覚は源頼朝と出会い、頼朝に対し平家討伐を勧め、成功した暁には神護寺への援助をする約束を交したとされています。頼朝の挙兵により平氏が衰退に向かうと、法皇は文覚の願いに応じて荘園を寄進、さらに頼朝などの寄進、文覚亡き後の弟子たちの貢献もあり、神護寺は再興しました。
高雄城
"高雄城跡は桂川の支流清滝川の右岸に広がる丘陵の頂部に広がる城で、主郭のすぐ北側に巨大な堀切が2条あります。早くも建武3年(1336)に新田義貞に与した神護寺に対し、城郭を撤去するよう足利直義が求めています。"(参考④, 場所はページ6の図5を参照)
応仁の乱により衰退し、天文16年(1547)には、細川晴元が細川国慶の籠もる高雄城を攻め、落城。金堂・講堂・塔婆・御影堂・灌頂堂が消失しました。(『厳助往年記』)
江戸期から現在まで
慶長6年(1601)徳川家康から寺領260石の寄進や、元和元年(1615)に入山した讃岐国屋島寺の竜巌の諸国勧進により、伽藍が整備されました。現存する毘沙門堂、五大堂、鐘楼、楼門は、このとき建てられたものです。
昭和10年(1935)元実業家で多額納税者議員だった山口玄洞の寄進により、金堂、多宝塔、和気清麻呂霊廟などが建立され、伽藍の整備が行われました。
参考文献
- 別格本山高雄山神護寺 谷内乾岳『神護寺 京都高雄山神護寺蔵版』
- 平凡社『京都・山城寺院神社大事典』
- 公式パンフレット(新・旧)
- 馬瀬智光『戦国時代の寺と城』 - 京都市埋蔵文化財研究所(PDF)
- 竹内のぶ緒『東寺 行こう』(雄飛企画)
- 梅原猛『京都発見(7)空海と真言密教』(新潮社)