法観寺(八坂の塔)の歴史
法観寺は、臨済宗建仁寺派の寺院です。
五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、京都東山のランドマークになっています。塔の高さは46メートルほどあり、東寺、興福寺に次いで、国内の木造の五重塔では3番目の高さを誇ります。
歴史
寺伝によると、聖徳太子が夢の中で如意輪観音からお告げを賜り、崇峻天皇2年(589)心柱の礎石に仏舎利(釈迦の遺骨)三粒を納めた五重塔を建造したのが始まりとされています。
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- 聖徳太子の創建説は、暦応元年(1338)に渡来僧の清拙正澄(せいせつしょうちょう)が記した『山城州東山法観禅寺佛舎利塔記』を根拠にしています。
貞観11年(869)に完成した史料『続日本後記』には、「八坂寺」と記されており、創建には八坂郷を拠点とする渡来系の八坂造が関わったと推測されています。
天暦2年(948)塔身が西に傾いたとき、東隣にあった雲居寺の僧「浄蔵(じょうぞう)」(※)が加持して、元に戻したとされています。『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』
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- 加持祈祷に優れた天台宗の僧で、数々の霊験譚を持つ。天徳4年(960)には、五重塔の南西に位置する「八坂庚申堂(やさかこうしんどう)」(正式名称は「金剛寺」)を建立したと伝えられています。
治承3年(1179)清水寺の衆徒と祇園社(八坂神社)の神人との抗争により、塔が類焼しますが、住職の証阿が源頼朝に請願し、建久2年(1191)に再建されました。
仁治元年(1240)建仁寺の済翁証救(さいおうしょうきゅう)が入寺したことで、密教から禅宗の寺院へと改められます。
正応4年(1291)落雷により焼失しますが、延慶2年(1309)後宇多法皇の支援を受けた執権の北条時貞とその側室の覚海円成(かくかいえんじょう)によって再興されました。
南北朝時代に入ると、北朝の足利尊氏と弟の直義(ただよし)は、戦没者を弔うために、国ごとに一寺一塔を建立、または修復していきます。この計画は、夢窓疎石の進言によるもので、寺は安国寺(あんこくじ)、塔は利生塔(りしょうとう)と呼ばれました。
山城国は、法観寺の塔を修復して利生塔としましたが、永享8年(1436)に炎上、同12年、室町幕府6代将軍の足利義教(よしのり)によって再建されたものが現在の五重塔となります。
参考文献
- 森谷尅久『 地名で読む京の町(下)洛東・洛北・洛南編 』(PHP新書)