下鴨神社の歴史

下鴨神社 楼門

下鴨神社は、上賀茂神社の祭神「賀茂別雷命(カモワケイカヅチノミコト)」の母「玉依媛命(タマヨリヒメノミコト)」(※)と、玉依媛命の父「賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)」を祭神とする神社です。本殿西隣の三井神社には、賀茂建角身命の妻「伊賀古夜日売命(イカコヤヒメノミコト)」を加えた三柱の神が祀られています。

(※)
河合神社の祭神は玉依媛ですが、下鴨神社の祭神である玉依媛とは別の神様で、神武天皇の母になります。

正しくは「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」といいますが、鴨川の下流に祀られている社ということから、「下鴨神社」と通称されています。また、上賀茂神社とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社をもって「賀茂社」と呼ばれています。

起源は不明ですが、『鴨社造営記』によると、第10代崇神(すじん)天皇の御代となってから7年目(紀元前90年)に、朝廷によって神社の垣(囲い)が造り替えられたとの記録があることから、それ以前に存在していたと考えられています。また、天平神護元年(765)朝廷により上賀茂神社からの分流が認められたのを始まりとする説もあります。(参考③)

賀茂祭(葵祭)

賀茂社が5月15日に行っている例祭で、勅使代を中心とした本列と、後述する「斎王代」を加えた女人列が御所を出発し、下鴨神社、上賀茂神社の順に立ち寄り、祭儀が執り行れます。

欽明天皇の御代(539-571)に行われた祭礼を起源とし、大同2年(807)賀茂社が正一位の神階に叙されると、勅祭となります。尚、明治に入り改暦されるまでは、4月の吉日(2番目の酉の日)に行われていました。

平安中期には、「祭り」といえば賀茂祭のことを指すほどの盛り上がりをみせますが、徐々に衰退し、応仁の乱以降には途絶えたといわれています。江戸中期の元禄7年(1694)に再興され、この祭りの後から「葵祭」(※)とも呼ばれるようになりました。

(※)
"社殿に葵を飾り、祭の奉仕者が葵を身につけることから"(参考②)

第二次世界大戦末期の昭和19年(1944)に途絶えますが、戦後の昭和28年(1953)より再開されています。

賀茂斎院の制(かもさいいんのせい)

弘仁元年(810)嵯峨天皇は伊勢神宮の「斎宮の制」に倣い、「賀茂斎院の制」が定められ、宮中から未婚の皇女を遣わし、御杖代(※)として、賀茂社の祭事に奉仕しました。皇女は「斎王(さいおう)」と呼ばれ、境内には、斎王の御所「斎院」が置かれました。

初代斎王は嵯峨天皇の第8皇女である有智子内親王(うちこないしんのう)で、建暦2年(1212)までの400余年の間、35代に渡り続きました。

(※)
神の杖代わりとなって奉仕する者のこと。みつえしろ。

斎王代

昭和31年(1956)葵祭を盛り上げる目的で、斎王の代わりとなる「斎王代」を中心とした女人列が新設されます。尚、斎王代は民間の未婚の女性から選ばれています。

式年遷宮(しきねんせんぐう)

長元9年(1036)後一条天皇の宣旨により、伊勢神宮と同じく「式年遷宮」(※1)の制度が定められます。諸事情により延期される事もありましたが、21年毎に遷宮が行われています。

現在は、本殿を始めとする多くの社殿が国宝または重要文化財の指定を受けているため、21年毎に社殿を修理するという形(※2)を取っています。

(※1
一定の周期ごとに社殿を新造して、神体を移すこと。式年は「定められた年」、遷宮は「社殿を造り替える時、神体を移す」という意味。
(※2
修理前に神体を仮殿に移し、修理後、神体を元の場所に戻す。

下鴨神社では、平成27年(2015)4月27日、神体が仮殿から本殿に移されました。これを「正遷宮」といい、式年遷宮の中核となる儀式のため、その準備は平成19年(2007)から始められました。尚、下鴨神社の式年遷宮は、今回が34回目となります。

言社(ことしゃ)

言社(三言社)

言社(三言社)

「大国主命(オオクニヌシノミコト)」が持つ7つの呼び名には、異なる役割や神徳があるという信仰があり、下鴨神社ではその呼び名を干支の守り神として祀っています。

参考文献
  1. 葵祭(京都新聞社の葵祭特集ページ)
  2. 賀茂別雷神社 - 上賀茂神社(公式パンフレット)
  3. 下鴨神社 - 京都市埋蔵文化財研究所(PDF)