上賀茂神社 細殿と橋殿

細殿と橋殿

上賀茂神社は、「賀茂別雷命(カモワケイカヅチノミコト)」を祭神とする神社で、正しくは、「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」といいます。

上賀茂神社より南、賀茂川との高野川が合流する地点にある「下鴨神社」、正式名称「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社をもって「賀茂社」と呼ばれています。

『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』に記されていた『山城国風土記』の逸文によると、
賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)が大倭(奈良)から山代(京都)に移り住み、伊可古夜日賣(イカコヤヒメ)との間に、玉依日子(タマヨリヒコ)と玉依日賣(タマヨリヒメ)が生まれます。
玉依日賣が鴨川で川遊びをしていると、上流から丹塗の矢が流れてきたので、持ち帰ったところ、男子を授かります。この子が成人した頃、賀茂建角身命が「貴方の父であるものに酒を飲ませよ」と杯を渡したところ、御子は天に杯をかかげ、天に昇られました。尚、父である丹塗の矢は、乙訓郡の社に坐す火雷命(※1)でした。
この御子が祀られているのが上賀茂神社で、名は祖父や父に因んで賀茂別雷命とされました。また、祖父、祖母、母は蓼倉里(※2)三井の社(三身の社)に坐しました。
(※1
(ホノイカヅチノミコト)『釈日本紀』や『都名所図会』などには、松尾大明神、つまり松尾大社に祀られている大山咋神(オオヤマクイノカミ)であると記されています。但し、これを『山城国風土記』の逸文とするのは違和感が。
(※2
奈良時代から平安時代にかけて、下鴨神社の一帯は蓼倉郷(たでくらごう)と呼ばれおり、現在では、蓼倉町という町名となって残っています。

社伝によると、神代の昔(※1)、賀茂別雷命は上賀茂神社の北北西にある神山(※1)、賀茂建角身命は、下鴨神社の北東にある御蔭山(みかげやま)に降臨したといわれています。

白鳳6年(678)山背国により賀茂神宮が造営され、これを上賀茂神社の起源としています。尚、下鴨神社は、崇神(すじん)天皇7年(紀元前90年)朝廷によって神社の垣(囲い)が造り替えられたとの記録があり、起源はそれ以前とされています。また、天平神護元年(765)朝廷により上賀茂神社からの分流が認められたのを始まりとする説もあります。(参考③)

(※1
参考②や公式サイトなどから。「神武天皇の御代」と記されているものもある。
(※2
(こうやま)標高301.5メートル

立砂(たてずな)

紫宸殿と南庭

立砂は、祭神である賀茂別雷命を神山から里に迎えるための依代で、山をかたどって造られています。盛砂(もりずな)とも呼ばれています。"立砂の頂に松の葉が立てられているのは、昔、神山から引いてきた松の木を立てて神迎えをしていた名残と云われています。"(参考②)

また、この信仰を起源として、鬼門・裏鬼門に砂を撒き清める「清め砂」が始まったといわれています。(駒札)

賀茂祭(葵祭)

賀茂社が5月15日に行っている例祭で、勅使代を中心とした本列と、「斎王代」を加えた女人列が御所を出発し、下鴨神社、上賀茂神社の順に立ち寄り、祭儀が執り行れます。

賀茂斎院の制(かもさいいんのせい)

宮中から未婚の皇女を遣わし、神の杖代わりとして、賀茂社の祭事に奉仕する制度で、皇女は「斎王(さいおう)」、斎王の住まいは「斎院(さいいん)」と呼ばれました。

式年遷宮(しきねんせんぐう)

一定の周期ごとに社殿を新造して、神体を新しい社殿に移す制度で、賀茂社では、21年毎に行われています。(現在は、社殿を新造するのではなく、修繕する形がとられています。)

尚、上賀茂神社では、平成27年(2015)から第42回式年遷宮が行われています。尚、縦看板には、平成32年(2020)3月迄と書かれていました。

参考文献
  1. 釈日本紀 - 国文学研究資料館(164コマから)
  2. 賀茂別雷神社 - 上賀茂神社(公式パンフレット)
  3. 下鴨神社 - 京都市埋蔵文化財研究所(PDF)
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