本殿金堂と金剛床
『鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)』によると、宝亀元年(770)初寅の夜、奈良の唐招提寺にいた鑑禎(がんちょう)は、夢の導きによりこの地を訪れ、毘沙門天の像と出会い、毘沙門天を祀るために草庵を結びます。この草庵が鞍馬寺の歴史の始まりとされています。
平安遷都から2年後の延暦15年(796)には、造東寺長官であった藤原伊勢人が新たに千手観音の像を造り、毘沙門天と共に祀るための伽藍を造営しました。
寛平年間(889-897)東寺の峯延(ぶえん)が入寺したことにより、真言宗の寺院となりますが、平安時代後期、比叡山から来た重怡(じゅうい)が入寺し、保延年間(1135-1140)には天台宗へと改宗しています。
文化11年(1814)の火災により本堂を含む堂塔を焼失、これを機に鞍馬寺は衰退し、明治に入り、神仏分離の影響も受け、山内の院坊は一層閑散(※)となりました。以前より鞍馬寺が執り行っていた「鞍馬の火祭」も、寺の鎮守社である由岐神社が行うようになり、鞍馬寺が関与することはなくなりました。
- (※)
- "明治四十三年ごろの記録では、二十七あった末寺のうち二十一が無住寺になっています。僧はわずか六人しかおらず、鞍馬寺がもっとも落魄した時代でした。"(参考①)
鞍馬弘教
大正8年(1919)鞍馬寺の住職となった信樂真純(1894-1972)は、昭和22年(1947)に鞍馬弘教を立教開宗。昭和24年(1949)天台宗から独立し、鞍馬寺は鞍馬弘教の総本山となります。翌年5月には、真純が初代鞍馬弘教管長に就任し、名を香雲と改めます。
昭和49年(1974)から娘の香仁(1924-)が鞍馬弘教管長・鞍馬寺貫主に就任し、現在に至ります。
鞍馬弘教は、毘沙門天、千手観音に加え、太古より金星から鞍馬山に降臨した護法魔王尊を本尊とし、これらは"別々のものではなく同一のものであり、それが機にふれ縁に応じて姿を変え現れる"(参考①)ことから、三尊を一つ(一体)とみなし、三身一体(さんじんいったい)の尊天といいます。
源義経
義経公供養塔(東光坊跡)
平治の乱(1160)により、父を失った源義経(1159-1189)は、7歳の時に鞍馬寺の東光坊に預けられました。寺では「遮那王(しゃなおう)」と呼ばれ、出奔する16歳まで鞍馬山で過したといわれています。
鞍馬寺では、義経の死後、その魂は鞍馬山に戻ったと信じられており、義経を「遮那王尊」として神格化し、義経に関する催しを行っています。
昭和15年(1940)東光坊の跡地に義経の供養塔(上の写真)が建てられました。
鞍馬山鋼索鉄道
昭和32年(1957)参詣者の利便を図るために運行されたケーブルカーで、高低差90メートル、営業距離は200メートルほどで、日本一短い鉄道となっています。
台風21号による被害
左が大杉権現社(2019年4月9日),右が鬼一法眼社(2018年11月1日)
平成30年(2018)台風21号の影響により、鞍馬・貴船周辺は倒木などで建物が損壊、叡山電車の一部区間が運転を休止、鞍馬山の参道が通行止めになるなど、深刻な被害を出しました。現在、運転休止・通行止めは解除されていますが、鞍馬寺では、大杉権現社、鬼一法眼社などが被害を受けていることが確認されています。
参考文献
- 鞍馬山教務部 『鞍馬山小史』(鞍馬弘教総本山鞍馬寺出版部)
- 『鞍馬山案内』(総本山鞍馬寺)