金閣寺(鹿苑寺)の歴史

金閣寺 金閣と鏡湖池

金閣と鏡湖池(きょうこち)

金閣寺とは、舎利殿「金閣」からきた通称で、正式名称は「鹿苑寺(ろくおんじ)」といい、臨済宗相国寺派大本山である「相国寺(しょうこくじ)」の塔頭寺院です。

その歴史は、将軍職を辞し出家した「足利義満」が、西園寺家の「北山第(きたやまてい)」(※)を河内国の領地と引き替えに譲り受け、応永4年(1397)新たに舎利殿を中心とした山荘「北山殿」を造営したことに始まります。

(※)
藤原公経(1171-1244)が北山に建立した山荘で、「西園寺(さいおんじ)」と名付けられました。西園寺の家名もこれに因む。きたやまだい。

応永元年(1394)室町幕府4代将軍となった義持は当時9歳であり、実権は父の義満が握り続けました。その結果、政治や文化の中心は「花の御所」(※)と呼ばれた足利将軍の邸宅から、新たに義満の居所となる北山殿に移ります。

(※)
永和4年(1378)義満が北小路室町に造営した邸宅。「室町殿」「室町第」と呼ばれ、室町幕府の名は、これに因む。

応永15年(1408)51歳で義満が没し、応永26年(1419)妻の日野康子(※)が亡くなると、義持は北山殿を解体、縮小して禅寺に改めます。寺号は、義満の戒名「鹿苑院殿准三宮大相國天山道義大禅定門」に因み「鹿苑寺」としました。

(※)
義満の後妻にあたり、先妻は叔母の日野業子(なりこ)。妹の栄子は義持の妻となり、5代将軍「義量(よしかず)」を生んでいる。

応仁の乱では、金閣寺に西軍が陣を敷いたため、多くの伽藍が破壊され、唯一創建当初の建物であった舎利殿も、昭和25年(1950)金閣寺の見習い僧の放火により焼失してしまいます。

金閣(舎利殿)

焼失前の金閣

焼失前の金閣『黒川翠山撮影写真資料』(京都府立京都学・歴彩館)

昭和30年(1955)に再建された、三層の木像建造物で、二層と三層に金箔が貼られているため、金閣と通称されています。舎利殿とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を安置する建物のことで、三層に安置されています。

"創建当初の規模と形式に復原"(参考①)されたものとしていますが、建築史家の宮上茂隆は異議を唱えていました。(参考⑤などを参照)

(※)
"文化財建造物の修理の際に用いる言葉で"、"建物の改造の痕跡をもとに、改造前の姿に戻すことを意味します。"(参考②)

一層は「法水院(※)」、二層は「潮音洞(ちょうおんどう)」、三層は「究竟頂(くっきょうちょう)」と呼ばれ、"創建当初、二層には足利義満筆の「潮音洞」、三層には「後小松天皇筆の「究竟頂」の額がかけられ"(参考④)ていました。

(※)
北山第(西園寺)や北山殿の堂塔の中に法水院の名が有るため、創建時から付けられた名ではないと思われます。読み方は、ほっすいいん(京都市の駒札、新公式パンフレット),ほうすいいん(旧公式パンフレット),ほすいん(参考⑧)
金閣と漱清

金閣と漱清

一層の池に迫り出している建物は、一般には釣殿と呼ばれるものですが、金閣寺では、「漱清(そうせい)」という固有の名が付けられています。

『蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)』によると、文明17年 (1485)10月15日、 足利義政が金閣寺に訪れ、亀泉集証(きせんしゅうしょう・著者)から二層の観音像、安置されていたとされる三層の阿弥陀三尊像と白雲だけとなった二十五菩薩像の説明を受けています。

金閣一層(正面から)

消失前の一層『黒川翠山撮影写真資料』(京都府立京都学・歴彩館)

慶安2年(1649)金閣の修理が行われ、"このとき、初層の北側を壁にして義満像を安置する須弥壇を設ける改造が加えられ、義満を祀る本堂としての体裁が整えられ"(参考⑧,日向進)ました。

金閣一層

消失前の一層『黒川翠山撮影写真資料』(京都府立京都学・歴彩館)

消失前とかなり違いがあり、現在、須弥壇はなく、左から義満像、宝冠釈迦如来像、掛け軸が置かれています。尚、旧パンフレットなどに一層の写真が載っています。

焼失前の明治36年 (1903) から同39年にかけて、金閣の解体修理が行われ、"後世の改変箇所の復原や屋根葺き替えなどが実施され"(参考①)ています。

この修理は、明治30年(1897)古社寺保存法が公布され、『鹿苑寺金閣』が特別保護建造物に指定されたことを契機にして行われたもので、古社寺保存法は、文化財保護を目的とした近代の最初の法律となります。

金閣二層

消失前の二層『黒川翠山撮影写真資料』(京都府立京都学・歴彩館)

消失前の二層西側の大部屋には、中央に岩屋観音像、周囲に四天王が安置され、壁や床は黒漆塗り、天井には飛天が描かれています。この型は、現在(参考⑧掲載の写真などで確認できます。)も変わっていませんが、像の大きさや形に違いがあります。

北山大塔(七重塔)

応永6年(1399)足利義満は、相国寺に高さ約109メートルの七重塔を建立しますが、応永10年(1403)の落雷で焼失。翌年、義満は北山殿において『北山大塔』の造営を開始、規模や場所は不明ですが、後花園天皇の父である伏見宮貞成(さだふさ)親王が記した『看聞日記(かんもんにっき)』には、この塔は七重で、応永23年(1416)落雷により消失したとあり、相国寺の七重塔と同規模のものではないかと考えられています。

北山大塔の推定地は、不動堂参道の北側とされ、付近から金銅製の宝輪片が出土しています。詳しくは、参考⑨を参照してください。

参考文献
  1. 鹿 苑 寺 - 京都市埋蔵文化財研究所(PDF)
  2. (156)復原と復元の違い - なぶんけんブログ - 奈良文化財研究所
  3. 修理の歴史 - 京都府教育庁 文化財保護課 - 京都府教育委員会
  4. 文化史09 金閣寺(鹿苑寺) - 京都市(PDF)
  5. 冨井正憲『折衷の美-金閣』 - 神奈川大学 学術機関リポジトリ
  6. まぼろしの相国寺七重塔を復元する - 京都市埋蔵文化財研究所(PDF)
  7. 『黒川翠山撮影写真資料』京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ
  8. 有馬頼底・梅原猛『新版 古寺巡礼 京都 第21巻 金閣寺』(淡交社)
  9. 特別史跡・特別名勝 鹿苑寺(金閣寺)庭園 - 京都市埋蔵文化財研究所(PDF)
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