銀閣寺の歴史

銀閣寺

銀沙灘・向月台・銀閣

文明14年(1482)室町幕府8代将軍である足利義政は、3代将軍義満の山荘「北山殿」にならい、応仁の乱により焼失した浄土寺(※)の跡地に山荘「東山殿」の造営を開始。翌年には東山殿を居所とします。

(※)
還俗(僧侶から俗人に戻る)する前に弟の義視(よしみ)が住職をしていた天台宗の寺院。

文明17年(1485)義政は出家し、翌年には「東求堂(とうぐどう)」が完成しますが、後に「銀閣」として広く知られる観音殿の完成を見ることなく、延徳2年(1490)55歳で亡くなりました。

遺命により、東山殿は寺に改められ、寺号は、義政の戒名「慈照院殿准三宮贈一品喜山道慶大禅定門」に因み、「慈照院」とされました。
延徳3年(1491)には、故人である夢窓疎石を名目上の開山として招き、寺号を「慈照寺」に改めています。

天文19年(1550)15代将軍義昭と三好長慶の争いにより、観音殿と東求堂以外の建物を失います。

近衛前久(1536-1612)の別荘として使われた際は、相国寺の寺領から外れますが、前久の死後、再び相国寺の寺領になりました。

元和元年(1615)、寛永16年(1639)と改修がなされ、現在の銀閣寺に近い形になったといわれています。また、この頃から金閣寺(鹿苑寺)の舎利殿である「金閣」に対し、観音殿は「銀閣」と呼ばれるようになり、後に寺自体が「銀閣寺」と通称されるようになりました。

銀閣(観音堂)

銀閣(観音堂)

銀閣の北・東面を撮影

二層の楼閣で、初層は書院造で、仏間を「心空殿(しんくうでん)」といい、小ぶりの地蔵菩薩坐像と、その周りを囲むように千体地蔵菩薩立像が置かれています。上層は禅宗様の仏殿は、「潮音閣(ちょうおんかく)」といい、観音菩薩坐像が安置されています。

金閣(舎利殿)と同じく、宝形造、柿葺(こけらぶき)の屋根には鳳凰が飾られています。金閣はその名の通り、舎利殿に金箔が貼られた楼閣ですが、銀閣に銀箔は使われておらず、黒漆が塗られています。

明治30年(1897)文化財保護を目的とした近代の最初の法律である「古社寺保存法」が公布され、同33年には「慈照寺樓閣(銀閣)」として特別保護建造物に指定されました。
大正2年(1913)大規模な解体修理が行われ、昭和26年(1951)には、東求堂とともに国宝に指定されています。(尚、金閣は前年の放火で焼失したため、昭和30年(1955)に再建されますが、国宝の指定からは外されました。)

東求堂

東求堂と仙桂橋

東求堂と仙桂橋

文明18年(1486)に造営された義政の持仏堂で、西芳寺の西来堂(本堂)を模範として造られています。

東求堂の北東の四畳半の間、同仁斉は、義政の書斎であり、茶を嗜んでいたことから草庵茶室の源流といわれています。また、現存最古の書院造とされています。

銀閣寺庭園

銀閣寺庭園

庭園は、錦鏡池(きんきょうち)を中心にした池泉回遊式庭園が東山殿の遺構となります。西芳寺を参考にして足利義政自身が作庭の指導をし、造園は山水河原者の善阿弥一族が参加したと考えられています。

尚、本堂前庭の銀沙灘とその奥にある円錐台の向月台が目立ちますが、これらは江戸時代に作られたものです。

銀沙灘と向月台

銀沙灘

銀沙灘

本堂正面に広がる「銀沙灘(ぎんしゃだん)」は、高さ約65センチメートル、銀沙灘と銀閣の間にある円錐台の「向月台(こうげつだい)」は、高さ約180センチメートルあり、江戸時代後期(※)に造られました。当初の銀沙灘は、現在と形が異なり、また、向月台の高さは低かったといわれています。

(※)
享保20年(1735)に刊行された作庭書『築山庭造伝(つきやまにわつくりでん)』には、銀沙灘と向月台がない。(参考③)
向月台

向月台

参考文献
  1. 有馬頼底・久我なつみ『新版 古寺巡礼 京都 第11巻 銀閣寺』(淡交社)
  2. 文化史10 銀閣寺(慈照寺) - 京都市(PDF)
  3. 築山庭造伝 - 国文学研究資料館
  4. 古社寺保存法 - 国立公文書館
  5. 平凡社『京都・山城寺院神社大事典』