清閑寺 本堂

本堂

清閑寺(せいかんじ)は、真言宗智山派の寺院です。

その歴史は、延暦21年(802)比叡山の紹継(しょうけい)によって天台宗の寺院として創建されたことに始まります。

その後、盛衰を繰り返し、一条天皇の御代(986-1011)佐伯公行によって中興され、勅願寺となります。菅原道真の作と伝わる十一面千手観音菩薩を本尊とし、法華三昧堂、宝塔、山神堂などが建立され、寺号を「清閑寺」にしました。尚、十一面千手観音菩薩は、現本堂の本尊として現存しています。

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、道我(※1)、賢俊(※2)といった真言宗の僧が清閑寺で過しており、この頃に改宗されたと考えられています。

(※1
"徒然草の作者吉田兼好の友人として知られ東寺二ノ長者に累進された"(参考①)
(※2
(1299-1357)足利尊氏に付き従い、後に醍醐寺座主、根来寺座主、東寺長者など要職を歴任しました。

応仁の乱により荒廃しますが、慶長年間(1596-1615)紀伊(和歌山県)根来寺(ねごろじ)の僧、性盛(しょうせい)によって再興されました。現在の本堂は、このときに再建されたものです。享保15年(1730)には、鐘楼が再建されています。

明治政府の上地令により衰退。昭和初期に境内整備が行われ、現在に至ります。

小督と高倉天皇

小督(こごう)は、保元2年(1157)藤原成範の娘として生まれ、高倉天皇の中宮である平徳子(建礼門院)の命で入内します。

美しく琴の名人であった小督は、高倉天皇の寵愛を受けますが、徳子の父である平清盛の怒りを買い、治承元年(1177)には、高倉天皇との間に範子内親王が生まれますが、宮中を追われ、清閑寺で出家します。

高倉天皇(1161-1181)は、治承4年(1180)徳子との間に生まれた言仁親王(安徳天皇)に譲位。小督のいる清閑寺に葬るよう遺言を残し、翌年崩御されました。

清閑寺に至る参道(下の写真)の途中にある後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)は、高倉天皇の墓所で、傍らには、小督の墓と伝わる宝篋印塔があります。(境内に小督を供養する宝篋印塔がありますが、参考①の写真から比較的新しいものと推測されます。)

参道

(上写真)左に後清閑寺陵(下)があり、右上にある門は清閑寺の山門となります。

後清閑寺陵

後清閑寺陵

このさらに奥(北)には、先代の六条天皇の清閑寺陵があります。

六条天皇

六条天皇(1164-1176)は、父の二条天皇の譲位により、2歳(生後7ヶ月)で天皇になられました。在位は約3年で、後白河院の第7皇子(二条天皇の弟)である憲仁親王(高倉天皇)に譲位し、安元2年(1176)13歳(満11歳8ヶ月)で崩御されました。『山槐記(さんかいき)』によると、遺体は、藤原邦綱が所有する清閑寺の小堂に埋葬されたとあります。(藤原邦綱は、六条・高倉・安徳天皇の養育に携わった人物です。また、参考①には、小堂の他に邸宅を営まれていて、そこで崩御されたとしています。)

郭公亭(かっこうてい)

(西郷・月照・村岡 謀議ノ址)東山区歌ノ中山清閑寺町 清閑寺 郭公亭

(西郷・月照・村岡 謀議ノ址)東山区歌ノ中山清閑寺町 清閑寺 郭公亭(京都大学附属図書館所蔵)

郭公亭は、清水寺成就院の住職、月照の隠居後の居所で、鐘楼の後方の丘にあり、『京都維新史蹟』によると、六畳の座敷と四畳半の茶室、四畳の押入れ兼台所を備えていました。腐食はげしく、平成3年(1991)7月に解体されたため、現存していません。

上の写真の表題にある村岡とは、近衛家の老女村岡のことで、月照は、嘉永7年(1854)弟の信海に成就院住職を継がせて近衛忠煕の歌道に入門します。同家に出入りするようになり、西郷隆盛とは村岡の紹介で知り合い、郭公亭でしばしば尊王攘夷の謀議(※)をしたといわれています。

(※)
安政5年(1858)大老井伊直弼が朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約を締結したため、朝廷は、水戸藩に幕府の対応や政策を咎める勅書を送りますが、この勅書を送るための謀議。
勅書により、幕府は反幕勢力が倒幕を画策してるとして尊王攘夷派を弾圧。月照は西郷(薩摩藩)を頼って鹿児島に逃れることになるのですが、郭公亭でその相談をしたとも。
清閑寺 郭公亭 遠望

(左)清閑寺 郭公亭 遠望(京都大学附属図書館所蔵)

要石(かなめいし)

要石からの眺め

上写真は、京都市中への展望で、ちょうど扇を開いた形になっています。要の位置にある石(写真中央下)は要石と呼ばれ、いつの頃からこの石に誓いを立てて、事の成就を願うようになりました。

参考文献
  1. 歌中山 清閑寺(公式パンフレット)
  2. 京都維新史跡写真帖 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
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