本願寺山科別院(山科御坊)の歴史
蓮如上人御廟所
この地は以前、本願寺中興の祖である本願寺第8世蓮如(1415-1499)が創建した山科本願寺がありました。寺領は広大で、周辺には集落が点在し、堀や土塁を築いて城郭都市のような様相を呈していたとされていますが、
天文元年(1532)近江国守護の六角定頼と法華一揆衆に攻め込まれ焼失してしまいます。
尚、晩年の蓮如は大坂の別院を居所としていましたが、最期は山科に移り、明応8年(1499)85歳で亡くなりました。蓮如の遺骨が埋葬された場所には御廟が建てられ、現在は東西本願寺で管理されています。
京を追われた教団は、大坂にあった石山御坊を石山本願寺と改め本拠とし、天正19年(1591)には京都堀川に移りますが、江戸時代初頭に分裂。後に堀川は西本願寺、烏丸六条は東本願寺と通称されるようになります。
慶安3年(1650)には、本願寺が所有していた山科本願寺の旧跡地の所有をめぐって相論が起こり、奉行所の裁定を仰ぐことになりますが、どちらの所有も認められず、旧跡地は奉行所の預かりとなりました。その後も旧跡地が戻されることはなかったため、東西両派は、旧跡地の近くにそれぞれ御坊(別院)を建立し、山科本願寺を再興することにします。
西本願寺(浄土真宗本願寺派山科別院)
浄土真宗本願寺派山科別院 本堂
西本願寺は、享保17年(1732)御廟所の東側に北山別院の旧堂を移築して御坊を造営し、聖水山舞楽寺と名付けました。正式名称は「浄土真宗本願寺派山科別院」、通称「西別院」「西御坊」と呼ばれています。
東本願寺(真宗大谷派山科別院長福寺)
真宗大谷派山科別院長福寺 本堂
東本願寺も享保17年(1732)御坊建立に取り掛かかりますが、買い取った土地が狭かったために断念、元文元年(1736)御廟所の北側に京都の東本願寺寺内にあった長福寺を移築、御坊を造営しました。正式名称は「真宗大谷派山科別院長福寺」といいます。