本願寺の起源

弘長2年(1263)浄土真宗の宗祖となる「親鸞(しんらん)」は、弟の尋有(じんう)の住坊「善法坊」で亡くなります。遺骸は鳥辺野(とりべの)の南の「延仁寺」で火葬し、遺骨は鳥辺野の北の「大谷」に埋葬されました。

文永9年(1272)親鸞の末娘である「覚信尼(かくしんに)」は、夫の小野宮禅念の所有地(※)に父の遺骨を移し、六角の廟堂(大谷廟堂)を建立します。この廟堂が本願寺の歴史の始まりとされています。

(※)
「吉水(よしみず)の北の辺」(知恩院の三門と黒門の間にある崇泰院付近と推測されており、現在、この場所は「元大谷」と呼ばれています。)

文永11年(1274)小野宮禅念は妻に土地を譲り、翌年、亡くなります。尚、小野宮禅念との間には、「唯善(ゆいぜん)」が生まれています。

廟堂の運営費は、門弟で出し合いましたが、覚信尼は、土地を提供することで廟堂の管理者になります。管理者は、後に「留守職(るすしき)」と呼ばれ、覚信尼は、自分の子孫がその職を継いでいくことを東国の門弟に通達しました。

弘安6年(1283)覚信尼は後継に先夫の日野広綱との間に生まれた「覚恵(かくえ)」を指名して亡くなります。その覚恵が留守職に就きますが、正安4年(1302)唯善もその地位を欲したため、論争となります。徳治元年(1306)唯善が廟堂を占拠して覚恵を追放。翌年、覚恵は後事を長男の「覚如(かくにょ)」に託して亡くなりました。

覚如と門弟は、この問題の解決を青蓮院(※)に求めます。延慶2年(1309)覚如に有利な裁定が下ったため、唯善は廟堂を破壊し、親鸞の遺骨と影像を持ち去ります。その後、唯善は相模国鎌倉郡(神奈川県鎌倉市常葉)に小堂を建て、遺骨と影像を安置したとされています。

(※)
(諸説あり)廟堂は、妙香院の別院、法楽寺の敷地に建てられていて、妙香院は、青蓮院の管理下にあった。青蓮院の門主が妙香院の門主を兼ねていたとも。少なくとも、延暦寺(天台宗)の影響下にあったことは間違いない。

覚如が教団の基礎を築く

延慶3年(1310)東国の門弟の承認を受け、正式に留守職に就いた覚如は、廟堂の再建とその寺格化を図り、元亨元年(1321)頃には、廟堂を「本願寺」と公称しています。

覚如は、親鸞が法然の正当な後継者であり、その教えを受けた孫の「如信(にょしん)」から法門を受け継いだ自らの正当性を主張し、親鸞を宗祖、如信を本願寺第2世、自身を第3世と定め、教団の基礎を築きます。また、覚如は本願寺を中心した真宗門徒(信者)の統合を試みますが、東国の門弟の反発もあり、成功しませんでした。

以後、延暦寺の影響下にいることで、なんとか教団を存続させていましたが、第8世「蓮如(れんにょ)」の登場によって、状況が一変します。

蓮如の布教により大教団へと成長する

長禄元年(1457)43歳で門主となった蓮如は、近江で積極的な布教活動を行い、門徒を増やしていきますが、延暦寺の怒りを買い、寛正6年(1465)2度の襲撃を受け、廟堂が破壊されてしまいます。都を脱した蓮如は、近江、越前などに拠点を移しながら各地に赴き、布教を続けました。

蓮如は、門徒や大衆が教義を学び、語り合う場所「講(こう)」を各地に設けます。蓮如が門徒宛てに出した手紙「御文章(御文)」は、親鸞の教えがわかり易い短い文章で書かれており、それを講で読み上げることで、大衆にも教義が広がっていきました。

この手法は、文明3年(1471)越前吉崎(福井県あわら市吉崎)に拠点を移してから大々的に行われ、多くの門徒を獲得することに成功しました。

一向一揆(いっこういっき)

本願寺の門徒が主導して(関わって)起きた武装蜂起を「一向一揆」といいます。

「一向宗(いっこうしゅう」は、「一向(ひたすら)」に阿弥陀仏を信仰する浄土真宗のことを指しますが、蓮如の登場により本願寺を中心とした真宗門徒の統合が進んだため、一向宗イコール本願寺となりました。「一揆」(※)は、手段を一つにする、一致団結するといった意味を持ちます。

(※)
「揆」は、「やりかた」「手段」という意味(訓読み「はかりごと」「はか-る」「みち」)

史上初の一向一揆は、近江に身を寄せた蓮如が、近隣の門徒を結束させ、延暦寺宗徒の襲撃に立ち向かい、撃退したというもので、大谷本願寺襲撃の翌年(1466)に起こりました。

加賀一向一揆

応仁の乱では、加賀国守護の富樫政親(まさちか)が東軍(細川勝元)につき、弟の富樫幸千代(こうちよ)は西軍(山名宗全)についた為、兄弟が家督を巡り対立していました。

文明5年(1473)幸千代に敗れ、加賀を追われた政親は、本願寺と手を組み、当主の座を取り戻します。その後、本願寺との関係に亀裂が生じ、長享2年(1488)居城の高尾城を攻め込まれ、自害しました。

政親亡き後、本願寺は前当主の富樫泰高を名目上の守護に据え、加賀を支配します。この本願寺による支配は、天正8年(1580)織田軍に解体されるまで続くことになります。

山科本願寺と大坂別院の造営

文明7年(1475)8月、蓮如は吉崎御坊を退去して畿内に向かい、文明10年(1478)山城国山科郷(京都市山科区)にて本願寺の再建に取り掛かります。延徳元年(1489)蓮如は寺の実務から退き、5男の実如(じつにょ)が本願寺第9世となります。

明応5年(1496)蓮如は、摂津国東成郡生玉荘大坂(現在の大阪城公園の辺り)に別院(※)を設けて居所としますが、最期は山科本願寺に移り、明応8年(1499)85歳で亡くなりました。

(※)
証如が記した「天文日記」によると、"大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。"
"「大坂」という地名が歴史上初めてあらわれるのは、明応7年(1498)11月21日付の蓮如の「御文(御文章)」とされている。"(大阪市教育委員会)

山科から大坂(石山)へ

山科本願寺は、周囲に堀や土塁を築いて寺内町を形成し、城郭都市のような様相を呈していましたが、天文元年(1532)近江国守護の六角定頼と法華一揆衆に攻め込まれ、焼失してしまいます。

本願寺第10世の証如(しょうにょ)は、大坂別院を教団の本拠地に定め、以降、大坂別院は山科同様、周囲に堀や土塁を築いて寺内町を形成し、城郭都市のような様相を呈する大坂(石山)本願寺へと発展していきます。

石山合戦

元亀元年(1570)から天正8年(1580)までの11年間に渡り続いた、本願寺と織田信長との戦いを「石山合戦」といいます。

大坂(石山)本願寺の明け渡しを求めた織田信長に対し、本願寺第11世「顕如(けんにょ)」はこれに応じず、全門徒に決起を促し、信長との全面対決に突入します。

最終的に大坂本願寺を明け渡すことなどを条件に講和が成立、顕如は大坂から退去しますが、長男の「教如(きょうにょ)」は徹底抗戦を主張し、それを支持する門徒(主戦派)と籠城を続けたため(※)、明け渡しが遅れるとともに顕如に従った門徒(穏健派)との間で対立構造が生まれます。

(※)
これを理由に教如は顕如から義絶されますが、信長が亡くなった後に和解しています。

教如が退去した直後、火の手が上がり、大坂本願寺は灰燼に帰します。その跡地に建てられたのが大坂城で、本能寺の変(1582)により信長亡き後、勢力拡大させた羽柴(豊臣)秀吉は、天正11年(1583)大坂城の築城を開始。1年半で本丸が完成しますが、その後も増改築がなされ、難攻不落の城となります。

その後、顕如は、紀伊国鷺森(和歌山県和歌山市鷺ノ森)、和泉国貝塚(大阪府貝塚市)と移り、天正13年(1585)秀吉の寄進により、かつて大坂本願寺があった場所の北に位置する「天満(てんま)」(大阪府大阪市北区天満)に本願寺を造営、教団の本拠とします。

京都への移転と教団の分裂

天正19年(1591)秀吉の寄進により、大坂天満から京都堀川への移転が決まり、御影堂は天満のものを移築、阿弥陀堂もほどなく完成しますが、文禄元年(1592)11月24日、顕如が急死します。

教如が門主となりますが、これに反発した母「如春尼(にょしゅんに)」などの穏健派は、秀吉と接触し、生前の顕如が書いたとされる「譲渡状」を示します。それには、三男の「准如(じゅんにょ)」に留守職を継がせると書かれており、秀吉は教如を呼び出し、10年後に門主の座を准如に譲ること(※)を命じます。教如は従う姿勢を見せますが、強硬派の中で異議を唱えたものが出たため、秀吉の怒りを買い、即刻退けとの命が下り、文禄2年(1593)閏9月、准如が17歳で門主の座に就きます。

(※)
『駒井日記』によると、「大坂城に籠城した」「信長に敵対した」「大坂退去後の移転に対し、恩義を感じていない」「顕如に義絶された」「顕如の譲渡状の存在」「顕如が破門したものを重用した」「教如の妻女のこと」これらを指摘した上で、心から反省し、顕如のように殊勝な態度をとれば、10年間は門主の座に留まることを許すが、その後は准如に譲れと命じています。

隠居した教如でしたが、自身を支持する門徒に対しては門主として接しており、秀吉の死後、徳川家康に接近し、慶長7年(1602)家康の寄進を受け、本願寺の東に位置する烏丸六条に自身を門主とする本願寺を建立。 これにより、本願寺は二つに分かれ、西本願寺、東本願寺と通称されるようになります。

参考文献
  1. 「三代伝持の血脈」概観 - 浄土真宗本願寺派総合研究所(PDF)
  2. 吉崎御坊 蓮如上人記念館−蓮如上人について
  3. 真宗大谷派(東本願寺)沿革 | 東本願寺
  4. 教如上人の東本願寺別立 - ECHO-LAB(PDF)
  5. 柏原祐泉『本願寺教団の東西分立 : 教如教団の形成について』 - 大谷大学学術情報リポジトリ
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