
宇治上神社 本殿
宇治上神社は「応神天皇」「仁徳天皇」「ウジノワキイラツコ」(※)、宇治神社は「ウジノワキイラツコ」(※)を祭神とする神社です。
明治維新後に分かれ、現在の名称になりましたが、両社はとても近い場所にあり、昔は「宇治離宮明神」「離宮八幡宮」などと呼ばれ、宇治上神社を上社(本宮)、宇治神社を下社(若宮)としていました。
- (※)
- 『古事記』は「宇遅能和紀郎子」、『日本書紀』では「菟道稚郎子」と記されています。
社伝によると、かつてこの地には応神天皇の離宮があり、その皇子であるウジノワキイラツコが住んでいました。皇子の死後、異母兄の仁徳天皇が住居跡に祠を建て、その御霊を祀ったというのが両社の歴史の始まりとされています。また、平等院が創建(1052年)されてからは、その鎮守社としての役割も担うようになりました。

宇治神社 鳥居と中門
応神天皇の後継者
応神天皇は多くの子孫を残しましたが、中でもウジノワキイラツコの才能を高く評価し、後継に据えます。応神天皇の崩御後、ウジノワキイラツコは異母兄の皇子「オオサザキノミコト」(※)と皇位を譲り合い、即位しませんでした。
- (※)
- 『古事記』は「大雀命」、『日本書紀』には「大鷦鷯尊」と記されています。
こうした動きに対し、他の異母兄の皇子「オオヤマモリノミコト」(※)は、自らが後継に選ばれなかったことを恨み、ウジノワキイラツコの殺害を計画しますが、それを察知したオオサザキノミコトによって、計画がウジノワキイラツコに伝わり、逆に殺されてしまいます。
- (※)
- 『古事記』は「大山守命」、『日本書紀』には「大山守皇子(オオヤマモリノミコ)」と記されています。
ウジノワキイラツコの最後
『古事記』には「早くしてこの世を去った」としか記されていませんが、『日本書紀』は「オオサザキノミコトに皇位を委ねるべく自ら命を絶った」と記されており、一般的に美談として扱われています。
その後、オオサザキノミコトは第16代天皇(仁徳天皇)として即位されます。
宇治上神社 本殿

現存する最古の神社建築とされる本殿は、内殿3棟を左右一列に並べ、それを「覆屋(おおいや)」と呼ばれる建物で覆っています。
宇治歴史資料館と奈良文化財研究所の発表(2004年2月26日)によると、本殿の木材は「年輪年代法」(※)により、平安時代後期(1060年頃)のものであることが判明し、伐採直後に建立されたとの結論を示しました。これにより、現存最古の神社建築であることが裏付けられたとしています。
- (※)
- "年輪年代法とは、木材の年輪幅の変動変化を調べることでその木の伐採年代や枯死年代を求める方法です。"(参考①)
宇治上神社 拝殿

本殿の手前にある寝殿造(※)の拝殿は、現存最古の拝殿とされています。
宇治歴史資料館と奈良文化財研究所の発表によると、拝殿の木材は「年輪年代法」により、鎌倉時代前期(1215年頃)のヒノキが使われていることが判明し、伐採直後に建立されたとの結論を示しました。これにより、現存最古の拝殿であることが裏付けられたとしています。
- (※)
- "寝殿造とは、平安時代に京都で成立した貴族住宅の様式をいい、江戸時代の和学者沢田名垂(さわだなたり、1775~1845)が著述した日本住宅史の概説書『家屋雑考』(かおくざっこう)によって名付けられたものです。"(参考③)
桐原水(きりはらみず)

手水舎
背後にある大吉山から湧き出た水を、宇治上神社の横の手水舎に注ぐようにしています。宇治七名水の一つに数えられ、その中で現存するのは桐原水のみとなっています。
桐原という名は、ウジノワキイラツコが住んでいた「桐原日桁宮(きりはらたけのみや)」に因んで付けられました。