西明寺の歴史

西明寺 表門

西明寺は、京都三尾(高尾・槙尾・栂尾)の中間、槙尾(まきのお)にある古義真言宗(真言宗大覚寺派)の寺院です。

目次
  1. 歴史
  2. 本堂・表門
  3. 客殿
  4. 聖天堂と倍返りお守り
  5. 我宝自性上人
  6. 参考文献

その歴史は、天長年間(824-834)空海の弟子で甥の智泉が高雄(高尾)にある神護寺の別院として創建したことに始まるとされています。

元久元年(1204)紀州から上洛した明恵が西明寺を訪れ、槙尾に移住。(『明恵上人行状』)
その2年後、明恵は衰退していた栂尾(とがのお)にある神護寺の別院を下賜され、名を高山寺と改め再興しました。
西明寺においては、建治年間(1275-1278)和泉国の自性によって中興されたとあります。(『弘律始祖明忍行業記』)

正応元年(1288)(※)後宇多上皇から槙尾山平等心王院の寺号を賜ります。(参考①)

(※)
参考②では、正応3年(1290)に寺号を賜り、神護寺から独立したとあります。

"永禄年間(1558-1570)の兵火によって焼失し、神護寺に合弁されたが、神護寺の晋海が寺産の一部を分付し、慶長7年(1602)に明忍が再興、真言有部律の本寺とした。(『明忍律師行業曲記』)"(参考①)

本堂・表門

西明寺 本堂

寺伝によると、現在の本堂は、徳川5代将軍綱吉の生母「桂昌院(けいしょういん)」の寄進により、元禄13年(1700)に再建されたもので、本堂正面の表門(薬医門)も桂昌院の寄進によるもので、同時期に造られたとしています。

また一説には、本堂は後水尾天皇の中宮「東福門院」(1607-1678)の寄進との説もありますが(『雍州府志』・『名所都鳥』)、現在公式から発信されているものは、前者となります。(表門については原文を確認していないので、不明)

本尊の釈迦如来像は、鎌倉時代初期に仏師運慶によって造られたものとされています。東脇陣の千手観音像は、平安時代に彫られたものとされ、ともに重要文化財の指定を受けています。

西明寺 表門

表門

客殿

西明寺 客殿

左が客殿、右の本殿とは中央の渡り廊下で繋がっている。

江戸時代前期(1650年頃)に移築されたもので、以前は食堂(じきどう)と呼ばれ、僧侶の生活や戒律の道場として使われていました。

聖天堂と倍返りお守り

西明寺 聖天堂

白幕には、砂金袋(左)と大根(右)の紋がある。

元禄時代の建物で、秘仏の歓喜天(聖天)が祀られています。

歓喜天(かんぎてん)(※)は、ヒンドゥー教の神「ガーネーシャ」にあたり、ガーネーシャは頭像身人で四本の腕を持ち、浄化や現世利益をもたらす神とされています。一方、歓喜天は頭像身人の二天が抱き合っている姿で、夫婦和合・家庭円満といったご利益も加わります。

(※)
"【寛喜】仏教では、「かんぎ」と読む"(参考③)

大根は浄化、砂金袋(巾着袋)は現世利益を表し、そのことは西明寺で授与される「倍返りお守り」の意匠や効果にも反映されています。

「倍返りお守り」を入れる袋にはこう書かれています。

"出るお金に感謝しましょう。倍になって帰って来ます。"

ちなみに参考②には、砂金袋(巾着袋)ではなく、御団(おだん)と書かれていますが、御団とは、歓喜天にお供えする袋の形をしたお菓子のことです。

我宝自性上人

自性上人は、建治年間(1275-1278)西明寺を中興した人物とされています。

"姓は詳ならず。字は自性で、世に自性上人と尊称された。徳行高邁、博く顕密の学に通じ、学徒雲集せり。上人の教義として「生活に直結する信仰」、即ち、花を供えては「忍耐」の徳を養い、線香を供えては「努力・精進」の徳を省み、水を供えては自他共に潤う「施し」の徳を、御飯を供えては精神の食糧たる「禅定・静心」の徳を養うのが肝要であるといった教えが唱導された。上人の和歌に、「白露のおのが姿をそのままに紅葉におけば紅の玉」(一座行法肝要記)がある。"(参考②旧【人物】から)

参考文献
  1. 平凡社『京都・山城寺院神社大事典』
  2. 公式パンフレット(新・旧)
  3. 『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)