高山寺の歴史

高山寺 石水院 廂の間

石水院 廂(ひさし)の間

高山寺の起源は、寺伝によると、宝亀5年(774)光仁天皇の勅願によって開創された神願寺都賀尾坊とし、光仁5年(814)に寺名を栂尾十無尽院と改めたとしています。また、参考①では、天台宗の度賀尾(とがのお)寺を起源とする寺院とされています。

『日本高僧伝要文抄』によると、延長4年(926)天台座主となった尊意が、貞観18年(876)から3年間、度賀尾寺で修行したとあり、このことは『扶桑略記』にも記されています。
その後、度賀尾寺は荒廃しますが、神護寺(神護国祚真言寺)の文覚(もんがく)によって堂舎が建立され、神護寺の別所となります。(この頃に真言宗に属したか)正治元年(1199)に文覚が佐渡に配流されると、神護寺とともに衰退しました。

建永元年(1206)後鳥羽上皇の院宣により、明恵(※)に下賜されます。明恵は、華厳宗復興の道場として再興を図り、上皇から勅額「日出先照高山之寺」を賜わり、寺号を高山寺としました。

(※)
(1173-1232)明恵は、幼くして両親をなくしたため、叔父の上覚(1147-1226)を頼って神護寺に入ります。上覚は文覚に師事し、文覚の後を継いで神護寺の復興に貢献しました。

応仁の乱では寺領を失い、天文16年(1547)細川晴元が細川国慶の籠もる高雄城を攻め、その際、神護寺とともに焼打ちにされました。(『厳助往年記』)

寛永13年(1636)’秀融・永弁上人が堂坊の再興にあたり旧観をやや回復‘(参考②旧)

明治5年(1872)真言宗御室派に属しますが、昭和41年(1966)御室派から離脱し、現在は真言宗の単立寺院となっています。

石水院

高山寺 石水院 廂の間

南縁(なんえん)

現在の石水院は、明恵が高山寺を再興した頃に建てられた東経蔵といわれています。

創建当初、石水院と呼ばれていた建物は金堂の東にありましたが、安貞2年(1228)の洪水により流されたため、傍にあった東経蔵が石水院の名を引き継いだと考えられています。

明治14年(1881)火災により消失した三尊院の跡地(現在の場所)に移築されるにあたり、住宅風に改められ(1889)、昭和の修理では向拝が整備されました。南面に後鳥羽上皇宸筆の勅額、西面には富岡鉄斎(1837-1924)の木額「石水院」が掛けられています。

金堂

高山寺 金堂

現在の金堂は、寛永年間(1624-44)(※)仁和寺の真光院から御古堂(※)を移築したもです。本尊は釈迦如来。

(※)
公式サイトより。尚、参考①は金堂、参考①②(新)は寛永11年(1634)とし、断定ではなく「伝わる」という表現。

明恵とお茶

高山寺 日本最古之茶園碑と茶園

栄西が宋より持ち帰った茶種を明恵に贈り、明恵は自ら山内で栽培して茶園を営み、そこから宇治(跡影園)にも播植し、それが宇治茶の始まりとなりました。

明恵の茶園は、清滝川を挟んだ深瀬三本木にあったとされており、山内の茶園は後世のものなります。また、茶園入口に日本最古之茶園と刻まれた碑が置かれていますが、滋賀には、最澄(767-822)が天台山(中国浙江省)より持ち帰った茶種を植えたとされる日吉茶園(坂本比叡山口駅前)があり、こちらも日本最古(※)としています。

(※)
"殊に『日本後記』弘仁六年(八一五)四月条に、最澄と共に帰朝した永忠の手によって時の嵯峨天皇に煎茶が献じられた記事が、我が国喫茶の発祥とされている事からもこの茶園が最古と呼ばれる由縁であります。"(日吉茶園の駒札)
日吉茶園

日吉茶園

仁王門跡(石燈籠)

上の写真は、明治5年(1872)横山松三郎撮影「栂尾高山寺山門」(東京国立博物館所蔵)
写真に映っている仁王門は、明治14年(1881)火災により消失し、現在はその跡に石燈籠が置かれています。

高山寺 石燈籠

参考文献
  1. 平凡社『京都・山城寺院神社大事典』
  2. 公式パンフレット(新・旧)
  3. 杉山信三『明恵上人の高山寺庵室について』 奈良国立文化財研究所学術情報リポジトリ
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