龍安寺(りょうあんじ)は、臨済宗妙心寺派大本山である妙心寺の境外塔頭です。
かつてこの地には、天元6年(983)円融天皇の発願により建立された円融寺がありました。
円融天皇は永観2年(984)に譲位され、翌年には出家し、以後、円融寺で過ごしたといわれています。
上皇亡き後、円融寺は衰退しますが、藤原実能(さねよし)によって、その跡地には山荘が営まれ、徳大寺が建立されます。実能の子孫は、徳大寺を家名としたことから、実能は徳大寺家の始祖となります。
龍安寺は、守護大名の細川勝元が徳大寺家の12代目にあたる公有(きんあり)から山荘を譲り受け、自らが帰依する妙心寺塔頭養源院の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招き、宝徳2年(1450)に建立した寺院です。
義天は、2年前に亡くなった、師の日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を名目上の開山とし、養源院は同じ日峰門下の雪江宋深(せっこうそうしん)に譲ります。雪江は義天亡き後、龍安寺住職となり、やがて応仁の乱を迎えます。
応仁元年(1467)の兵火により、龍安寺は焼失し、勝元は子の政元を造営奉行に任じるなど、龍安寺の再興を支援しますが、文明5年(1473)5月に急逝したため、その後の再興は家督を継いだ政元が中心となって行います。
文明18年(1486)6月には、雪江が亡くなったため、政元は自らが帰依し、雪江の法を継いだ特芳禅傑(とくほうぜんけつ)を招きます。特芳は政元とともに再興に努め、中興の祖となりました。
現在、石庭の名で広く知られている方丈庭園の方丈は、明応8年(1499)に創建されますが、寛政9年(1797)の火災により、開山堂、仏殿などとともに焼失してしまいます。現在の方丈は、慶長11年(1606)に建立された西源院の方丈を移築したものです。
方丈庭園(石庭)
方丈の前面(南側)にある東西約25メートル、南北約10メートルの広さを持つ枯山水庭園です。庭一面に白砂を敷き、15個の石が置かれています。
西側、南側の杮(こけら)葺の築地塀は「油土塀」と呼ばれ、菜種油や餅米の研ぎ汁などを入れて練り合わせた土から造られています。
作庭された経緯が不詳であるため、石庭の解説は多種多様なものになっています。尚、作庭者については「勝元」や「政元」、「特芳」(※1)、将軍足利義政の同朋衆「相阿弥」(※2)といった名が挙げられています。
- (※1)
- "室町末期(1500年ごろ)、特芳禅傑などの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられています。"と拝観の際に配られるパンフレットに記載されるようになりました。
- (※2)
- 『都林泉名所図会』
蹲踞(つくばい)
中心を口の字と見立て、周りにある各文字を加えると、上から時計回りに「吾」「唯」「足」「知」(ワレ、タダ、タルヲシル)となり、
釈迦が説いた、
"知足(※)のものは、貧しといえども富めり、不知足のものは、富めりといえども貧し"
という、知足の心を図案化したものといわれています。
(自らの煩悩を知ることが出来れば、貧しくても心穏やかでいられるが、それが出来ない者は、豊かであっても心が満たされることはない。)
- (※)
- (ちそく)足るを知る。満足することを知る。
方丈の北の蹲踞(右上の写真)はレプリカであり、水戸光圀の寄進と伝えられているオリジナルの蹲踞は、方丈の北東に位置する茶室「蔵六庵(ぞうろくあん)」にあります。
蔵六庵
16世紀後半末に桂芳全久(けいほうぜんきゅう)が居住していた建物を起源とし、17世紀初期に塔頭大珠院の住職で茶人の僖首座(きしゅそ)によって茶室とされました。
現在の建物は、昭和4年(1929)の火災後に再建されたものです。
参考文献
- 杉本秀太郎・道浦母都子『新版 古寺巡礼 京都 第33巻 龍安寺』(淡交社)
- 『都林泉名所図会』