龍安寺の歴史

石庭(方丈庭園)

方丈前の庭園「石庭」で広く知られている龍安寺は、宝徳2年(1450)守護大名の細川勝元により建立された寺院です。

目次
  1. 歴史
  2. 石庭(方丈庭園)
  3. 勅使門
  4. 方丈の襖絵
  5. 蹲踞(つくばい)
  6. 参考文献

かつてこの地には、天元6年(983)円融天皇の発願により建立された円融寺がありました。円融天皇は、永観2年(984)譲位されると翌年には出家し、以後、円融寺で過ごしたといわれています。

鏡容池

鏡容池の創始は、円融寺の時代に遡るとされている

法皇亡き後、円融寺は衰退し、その跡地には、藤原実能(さねよし)により山荘が営まれ、徳大寺が建立されました。(実能の子孫は、徳大寺を家名としたことから、実能は徳大寺家の始祖となります。)

守護大名の細川勝元は、徳大寺家の12代目にあたる公有(きんあり)から山荘を譲り受け、自らが帰依する妙心寺塔頭養源院の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招き、宝徳2年(1450)に建立したのが龍安寺です。
義天は、2年前に亡くなった、師の日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を名目上の開山とし、養源院を同じ日峰門下の雪江宋深(せっこうそうしん)に譲ります。雪江は義天亡き後、龍安寺住職となり、やがて応仁の乱を迎えます。

応仁元年(1467)の兵火により、龍安寺は焼失し、勝元は子の政元を造営奉行に任じるなど、龍安寺の再興を支援しますが、文明5年(1473)5月に急逝したため、その後は、家督を継いだ政元によって支援されました。
文明18年(1486)6月、雪江が亡くなったため、政元は自らが帰依し、雪江の法を継いだ特芳禅傑(とくほうぜんけつ)を龍安寺に招き、特芳は政元とともに西源院の造営や東福寺から昭堂を移築して仏殿にするなど、再興に努め、中興の祖といわれています。

現在、「石庭」の名で広く知られている方丈庭園の方丈は、明応8年(1499)に創建されますが、寛政9年(1797)の火災によって、開山堂、仏殿などとともに焼失しています。現在の方丈は、慶長11年(1606)に建立された西源院の方丈を移築したものです。

石庭(方丈庭園)

石庭(西端)と油土塀(南)

石庭(西端)と油土塀(南)

方丈の前面(南側)にある東西約25メートル、南北約10メートルの広さを持つ枯山水庭園です。庭一面に白砂を敷き、15個の石が置かれています。

庭園を取り囲む、西側と南側の杮(こけら)葺の築地塀は「油土塀」と呼ばれ、菜種油や餅米の研ぎ汁などを入れて練り合わせた土から造られています。
また、寛政9年(1797)の火災においても、"方丈正面の土塀は全焼をまぬがれたようで、その製作は室町時代にさかのぼる。"(参考①)

作庭された経緯が不詳であるため、その解説は多種多様なものになっています。尚、作庭者は「勝元」や「政元」、「特芳」、将軍足利義政の同朋衆「相阿弥」といった名が挙げられ、拝観時に配布されるパンフレットには、"室町末期(1500年ごろ)、特芳禅傑などの優れた禅僧によって作庭された"と記されています。

勅使門

勅使門

石庭の東にある門

寛政9年(1797)の火災により、方丈とともに西源院から移築された門で、元は方丈に通じる玄関として利用されていましたが、現在は勅使門(不開門)となっています。

方丈の襖絵

『雲龍図』 第六の龍

荒れ狂う雲烟の中で知恵の真珠を掴み、満足感に満ちた表情をうかべている玉龍

方丈には、皐月鶴翁(さつきかくおう)によって描かれた、北朝鮮の金剛山及び龍の図の襖絵が飾られていましたが、劣化が進んでおり、細川勝元の550年遠忌記念として奉納された、細川護熙の『雲龍図』40面が方丈において特別公開されています。

『雲龍図』は全92面あり、令和8年(2026)10月以降、全92面を一般公開する(参考②)とされており、それを機に方丈の襖絵が切り替わると思われます。

細川護熙(1938-)は、肥後細川家第18代当主、第45・46代熊本県知事、第79代内閣総理大臣。60歳を機に政界を引退し、神奈川県湯河原の自宅で創作活動に勤しんでいます。

蹲踞(つくばい)

蹲踞(つくばい)

方丈北の蹲踞

中心を口の字と見立て、周りにある各文字を加えると、上から時計回りに「吾」「唯」「足」「知」(ワレ、タダ、タルヲシル)となり、知足の心を図案化したものといわれています。

知足とは、"[老子(第33章)「足るを知るものは富む」]現状を満ち足りたものと理解し、不満をもたないこと。"(広辞苑)

尚、一般拝観で見る方丈北の蹲踞はレプリカであり、オリジナルの蹲踞は、方丈の北東に位置する茶室「蔵六庵(※)」にあり、これは水戸光圀の寄進と伝えられています。

(※)
(ぞうろくあん)16世紀後半末に桂芳全久(けいほうぜんきゅう)が居住していた建物を起源とし、17世紀初期に塔頭大珠院の住職で茶人の僖首座(きしゅそ)により茶室とされました。
現在の建物は、昭和4年(1929)の火災後に再建されたものです。
参考文献
  1. 杉本秀太郎・道浦母都子『新版 古寺巡礼 京都 第33巻 龍安寺』(淡交社)
  2. 細川護熙元首相、世界遺産の龍安寺に「雲龍図」全92面奉納(日本経済新聞)
  3. 平凡社『京都・山城寺院神社大事典』