応仁の乱(応仁・文明の乱)

寛正5年(1464)足利8代将軍義政は弟の義視(よしみ)を後継者に指名しますが、翌年、正妻の日野富子に義尚(よしひさ)が生まれたため、富子と義尚は山名宗全(※1)を頼り、義政、義視、それを支持する細川勝元と対立します。しかし、義視が山名側についたため、後継を争っていた富子と義尚は義政の元に戻ります。

この後継者争いは、細川勝元と山名宗全の幕府における主導権争いに繋がり、管領の家督争いなども誘発させ、後に「応仁の乱」と呼ばれる内乱を引き起こしました。

文明5年(1473)3月に宗全、5月に勝元が亡くなり、12月には義政が将軍職を義尚に譲って隠居したことから、内乱は終息に向かいます。内乱は10年(※2)ほど続き、内乱による戦火で京都は灰燼(かいじん)に帰しました。

(※1
宗全(そうぜん)は出家後の法名で、出家前は持豊(もちとよ)といいます。
(※2
一般に応仁元年(1467)から文明9年(1477)までの期間を指していることから、「応仁の乱」または「応仁・文明の乱」と呼ばれています。
参考文献

西東社編集部『オールカラーでわかりやすい! 日本史』(西東社)