三門・仏殿・法堂

三門・仏殿・法堂

妙心寺は、臨済宗妙心寺派大本山の寺院です。

花園法皇(1297-1348)は、自らの離宮「花園御所(萩原殿)」を禅寺とすることを発願し、臨済宗の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)を開山として迎えようとします。しかし、妙超は病に伏していて容体も悪く、禅寺を正法山妙心寺と命名した上で、弟子の関山慧玄(かんざんえげん)を推挙し、建武4年(1337)に没します。
妙心寺の創建については諸説ありますが、妙心寺では、この年を開創の年としています。

玉鳳院(庫裏)

現在の玉鳳院は、明暦2年(1656)に再建されたもの

慧玄は、美濃国(岐阜県)に隠棲していましたが、法皇の要請により上洛。法皇は起居・参禅の場として玉鳳院(※)を建立し、暦応5年(1342)慧玄は離宮の寄進を受け、妙心寺の開山となりました。

(※)
(ぎょくほういん)離宮跡とされる場所に建てられており、玉鳳禅宮とも呼ばれています。創建は、1338年(公式の年表)、1342年(参考①など)と、インターネット上では、後者が多いですが、参考①の花園天皇宸翰の項に、慧玄と"10年あまりにわたり問法された"と記されていることを考慮すると、前者が有力に。また、参考②には、起居する場として、玉鳳院を方丈の後ろに建立し、参禅したとも。

応永6年(1399)足利義満によって、妙心寺第6世の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)が幽閉され、妙心寺の寺領は没収、その後、寺名を龍雲寺と改めさせられ、妙心寺は中絶します。
これは義満と対立し、幕府に対して反乱(応永の乱)を起こした、大内義弘が拙堂宗朴と通じていたと疑われたためだといわれています。
寺領は、宗朴が幽閉された青蓮院に渡り、その後、南禅寺の所管となりますが、永享4年(1432)妙心寺に返され、守護大名である細川勝元(※)の支援を得た日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)によって、再興されました。

(※)
勝元は、宗舜の弟子である義天玄承(ぎてんげんしょう)に帰依し、宝徳2年(1450)龍安寺を建立します。また、後述の応仁元年(1467)の兵火の後も再興を支援し、勝元亡き後は、家督を継いだ子の政元が引き続き支援を行いました。

応仁元年(1467)応仁の乱により多大な被害を受けますが、当時、妙心寺と龍安寺の住職を兼ねていた雪江宋深(せっこうそうしん)によって再興が図られます。文明9年(1447)には、後土御門天皇から妙心寺再興の綸旨(※)を賜り、再興の大きな助けとなりました。

(※)
(りんじ)天皇の命令を受け、蔵人所("機密文書や天皇の衣類・調度の出し入れや天皇への言上を受け持った役所"参考③)が出す文書。

永正6年(1509)利貞尼(※)は、仁和寺の真乗院から取得した土地を寄進。今日ある妙心寺の広大な寺領の基礎となり、妙心寺の発展に大きく貢献しました。

(※)
(りていに)出生については諸説あり。一条兼良の娘(参考①など)、野間入道の娘で甘露寺親長の養子となったとも。斎藤妙純(利国)の妻で、夫が戦死すると悟渓宗頓(ごけいそうとん)に帰依して惟清利貞の法名を授かり、美濃汾陽寺(岐阜県関市)の傍らに松隱菴を構えて夫の菩提を弔った。

明治5年(1872)花園大学・花園高等学校・花園中学校の前身となる、学寮「般若林」が境内に創設されました。

教部省と禅宗

明治5年(1872)明治政府は、教義に関する全ての事務を管理する機関「教部省」を設置します。教部省は、同年、臨済宗・曹洞宗を「禅宗」として統一させますが、同7年に臨済宗、曹洞宗の分離を認め、同9年には、当時、臨済宗に属していた黄檗派を黄檗宗として認可します。(尚、教部省は、同10年に廃止され、その機能は内務省に移されました。)

妙心寺派は、現在、臨済宗15宗派の中で、全国3400ヶ寺を持つ最大の宗派となっています。

参考文献
  1. 東海大光・長田弘『新版 古寺巡礼 京都 第31巻 妙心寺』(淡交社)
  2. 『都名所図会』
  3. 『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)
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