二条城の見どころ・解説

時間がない場合は、二の丸御殿内の観覧を取り止めるか本丸に向かわなければ、時間をかなり短縮できます。(現在、二条城入場料と二の丸御殿観覧料が別途設定されています。)

休城日や二の丸御殿の拝観休止日、また台風などにより臨時休城する場合もありますので、来城前に公式サイトやX(Twitter)などで情報収集することを強く推奨します。

目次
  1. 拝観順路から
    1. 東南隅櫓
    2. 東大手門
    3. 唐門
    4. 二の丸御殿
    5. 二の丸庭園
    6. 本丸御殿・庭園
    7. 天守台(天守閣跡)
    8. 清流園
  2. 参考文献

東南隅櫓(とうなんすみやぐら)

東南隅櫓

東南隅櫓は、現存する2つの櫓の一つで、寛永3年(1626)後水尾天皇が行幸(以下、寛永行幸とする)される際に建てられました。現存しているもう一つの南西隅櫓より一回り大きい造りになっており、出入り口となる東大手門の付近にあります。

東大手門

東大手門

正門であり、一般の出入口となる門。当初、2階建てでしたが、寛永行幸(1626)に際して単層の櫓門にし、寛文2年(1662)より現在の姿となりました。

平成26年(2014)10月から平成29年(2017)3月まで修繕工事が行われていました。

唐門

唐門

寛永2年(1625)に建てられた四脚門で、高さは10メートル、横の築地塀は、6メートルあります。

二の丸御殿

二の丸御殿

慶長8年(1603)に造営され、寛永行幸(1626)に伴い、現在の姿に改修されました。
書院造の建造物で、遠侍(とおざむらい)、式台、大広間、蘇鉄(そてつ)の間、黒書院、白書院の6棟が東南から西北にかけて斜めに立ち並んでいます。

徳川慶喜が大政奉還を宣言したのは、大広間一の間になります。

二の丸庭園

二の丸庭園と黒書院

二の丸庭園と黒書院

徳川家光の時代に小堀遠州によって改修され、寛永行幸(1626)の際には、池を取り囲むように建物が建てられており、往時は中庭的な庭園でした。

池の中心に3つの島、北西に滝を配置し、4つの橋を架け、水際に岩石を並べ、"大正期の改修で芝生を敷き、園路を設け、現在の池泉回遊式庭園となった。"(参考①)

本丸御殿・本丸庭園

本丸御殿

御常御殿(おつねごてん)

本丸御殿は、二の丸御殿と同等の規模を誇るものでしたが、天明8年(1788)の京都大火により、焼失。幕末に慶喜の住居として御殿の再建がなされ、この時に庭園も作られましたが、明治14年(1881)に撤去されました。

現在の本丸御殿は、明治26年(1893)から翌年にかけて、京都御苑の敷地内にあった旧桂宮邸の御殿(※)の一部を移築したもので、御常御殿、玄関、御書院、台所及び雁之間(がんのま)の4棟からなる江戸時代後期の建物で構成されています。尚、移築の際に枯山水庭園が作られますが、明治28年(1895)明治天皇の二条城行幸後、天皇のご意向により現在の芝生を主体とした庭に作り変えられました。

(※)
嘉永7年(1854)内裏(京都御所)が炎上した際には類焼を免れ、内裏の再建中は孝明天皇の仮皇居として利用されていました。

天守台(天守閣跡)

天守台から本丸御殿を望む

天守台から本丸御殿を望む

天守台(天守閣跡)は、高さ14メートルほどあります。

寛永行幸(1626)において、後水尾天皇一行が眺めを楽しんだとされる天守は、寛延3年(1750)の落雷において消失しました。

清流園

清流園は、昭和40年(1965)に造営された和洋折衷の庭園です。
この場所は、大正天皇の即位礼に際して造営された大饗宴場跡地で、戦後、GHQの意向によりテニスコートが設けられていました。

清流園

香雲亭(和風庭園)

池泉回遊式のには、高瀬川一之船入にあった角倉了以(すみのくらりょうい)の屋敷跡から移築した香雲亭と、表千家の残月亭を模した和楽庵があります。また、庭園には屋敷跡から移された約8百個の庭石と、全国から集められた名石約3百個が使われています。

清流園

ライオンが横たわっているように見える岩(洋風庭園)

参考文献
  1. 『世界遺産 二条城公式ガイドブック』(京都市文化市民局 元離宮二条城事務所)