清水寺は、北法相宗大本山の寺院です。

宝亀9年(778)賢心(後の延鎮)は、夢の中でお告げを賜り、音羽の滝に向かうと、一人の僧に出会います。名は行叡といい、行叡は賢心に霊木を授け、東国へ行くと告げて姿を消します。賢心は授かった霊木で千手観音を彫り、行叡が残していった草庵に観音像を祀りました。これが清水寺の始まりとされています。

その後、賢心は東北地方の蝦夷征討で活躍する坂上田村麻呂と出会います。賢心に感銘を受けた田村麻呂は、妻と共に帰依し、自らの邸宅を寄進して本堂(仏殿)を建立します。本尊には十一面千手観音、その脇侍に毘沙門天、地蔵菩薩が置かれました。

伽藍は何度も焼失しており、現存する伽藍の多くは、寛永年間に徳川3代将軍家光によって再建されたものです。

長らく奈良の興福寺に属する法相宗の寺院でしたが、昭和40年(1965)に大西良慶(1875-1983)が北法相宗を開宗し、法相宗から独立しました。

平成の大改修

平成20年(2008)から11年の工期で、本堂・馬駐・朝倉堂・子安塔・北総門・釈迦堂・阿弥陀堂・奥の院・子安塔を順次修復しています。

国宝 清水寺本堂ほか8棟 保存修理事業(京都府教育庁指導部文化財保護課)

本堂と舞台

本堂現在の本堂は、寛永10年(1633)に再建されたもので、正面約36メートル、側面約30メートル、高さ18メートルの仏殿です。十一面千手観音菩薩を本尊としていることから、大悲閣(※)とも呼ばれています。急な斜面に迫り出すように建てられていて、突き出た部分を舞台といい、古くから舞楽など芸能を奉納する場所として利用されてきました。

舞台舞台は、面積約190平方メートル、総檜板張りで、最長12メートルのケヤキの柱を並べ立て、貫(垂直材間に通す水平材)を縦横に通して楔(くさび)で組み固めることで、釘を一切使わずに構築されています。
江戸時代には清水の舞台から降りると願いが叶うという信仰があり、清水寺の記録によると、1694年から1864年までの間に未遂を含めて234件の飛び降りが行われています。尚、生存率は85.4パーセントでした。

(※)
観音菩薩が祀られている堂を大悲閣(だいひかく)といいます。

仁王門

仁王門仁王門 扁額室町時代後期の再建で、平成11年(1999)より工期4年で解体修理が行われました。仁王像は鎌倉時代のもので、高さは365センチメートルあり、京都府下では最大級のものとなっています。

扁額は平安時代の書家である藤原成行(ふじわらのなりゆき)の筆で、成行の筆跡は、後に小野道風(おののみちかぜ)、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)とともに「三蹟(さんせき)」(※)として称えられます。

(※)
他に「三筆(さんぴつ)」という各時代の優れた書道家を指し示す言葉がありますが、この3人は後世に影響を与えるほど優れていたため、尊敬の意をこめて「蹟」という言葉が使われています。

子安塔こやすのとう西京祇[祇]園神社[神社]ノ景子安塔

明治43年(1910)に移築されるまでは、仁王門の左手前にあり、安産の祈願所として信仰を集めていました。三年坂の別称「産寧坂」は、子安塔への参道であることから付けられたといわれています。平成の大改修における解体修理の過程で、明応9年(1500)の墨書が発見されたことから、室町時代後期の建造物であることが判明しました。

今年の漢字

平成7年(1995)より、公益財団法人日本漢字能力検定協会が"漢字の持つ素晴らしさや奥深い意義を伝えるための啓発活動の一環として始めたもので、毎年年末に一年の世相を表す漢字一字を全国から募集"し、最も多い募集の漢字を貫主の森清範の揮毫により発表しています。
発表日の12月12日は、同協会が制定した記念日(漢字の日)で、「いい(1)字(2)一(1)字(2)」の語呂合わせに因みます。(「今年の漢字」は同協会の商標です。)

普及啓発・支援活動 | 事業・活動情報 | 公益財団法人 日本漢字能力検定協会

参考文献

『清水寺 Kyoto Kiyomizu dera Temple』(便利堂)

『都名所図会』

古写真データベース『西京祇[祇]園神社[神社]ノ景』(国際日本文化研究センター)

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