渡月橋の歴史
渡月橋は、京都有数の観光名所である嵯峨野・嵐山エリアを隔てる桂川に架る橋です。
承和3年(836)空海の弟子道昌(どうしょう)が大堰川(桂川)の修築を行った際に架けられた橋を起源としています。道昌は、橋の南にある葛井寺(かずのいでら)に虚空蔵菩薩を安置し、伽藍の整備などを行いました。葛井寺は後に「法輪寺」と改められ、橋もこの名に因んで「法輪寺橋」と呼ばれていました。
往時の橋は100メートル上流(※)にあり、慶長11年(1606)角倉了以(すみのくらりょうい)によって保津川の開削工事が行れた際、現在の場所に架け替えられました。
- (※)
- 室町時代に作成された『応永鈞命絵図(おうえいきんめいえず)』などから往時の橋の位置を推定することが出来ます。
渡月橋の名の由来
「亀山上皇(1249-1305)が「曇りのない夜空に月が橋を渡っていく」様子を見て名付けたといわれています。
現在の渡月橋
「渡月橋」の揮毫は、天龍寺前官長、平田精耕(1924-2008)によるもの
昭和9年(1934)に造られたもので、鉄筋コンクリートを主体とする構造ですが、欄干や桁隠しを木製にすることで、橋全体が木製に見えるように設計されています。また、橋の損傷を防ぐため、上流にコンクリート製の杭を設置しています。
昭和50年(1975)歩道の増設、平成17年(2005)には防護柵として石柱が置かれました。
紅葉シーズンなど、観光客が多い日には柵が設置されることがあり、その場合、歩行者は一方通行になります。
渡月橋の古写真
黒川翠山撮影写真資料「嵐山」写真番号897
撮影時期は不明となっていますが、現在の渡月橋の橋脚と違いがほぼありません。
参考④(6ページ)には、
"渡月橋は、昭和7年6月の出水により橋の半分が流出し、昭和9年に鉄筋コンクリート製の橋に改築。幅員は当時の3倍に拡幅され、橋面が1m嵩上げされたものの、名勝としての調和を図るため、高欄に尾州檜を用い、桁隠しも設けられ、木橋の趣を継承。"
とあること、黒川翠山が昭和19年に亡くなっていることから、この写真(上)は1934年から1944年までに撮影されたと推測されます。
黒川翠山撮影写真資料「嵐山」写真番号899
撮影時期不明ですが、橋脚は木製で、左の駒札には大正(六か八)年八月嵯峨村役場と書かれていることが分かります。
以上の事から、看板の作成時の1917年から橋が流出する1932年までに撮影された写真であると推測されます。(但し、参考④の同じ形の橋脚の写真が改築後となっているので間違っている可能性もあり)
嵯峨渡月橋『撮影鑑 二』
参考⑤の解説から、さらに昔に撮影された写真であると推測されます。
参考文献
- 加納進 『嵐山あたりの史跡と伝説と古典文学を訪ねて』(室町書房)
- 『黒川翠山撮影写真資料』京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ
- 『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)
- 嵐山の史跡及び名勝としての価値 - 国土交通省近畿地方整備局(PDF)
- 『撮影鑑 二』京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ