東福寺の歴史
東福寺は、九條道家が九條家の菩提を弔うために建立された寺院です。
伽藍の造営は、嘉禎2年(1236)から19年もの歳月を費やして造られ、仏殿には約15メートルの大仏立像が安置されました。寺名は、奈良の東大寺から「東」、興福寺から「福」の字をとり、東福寺と名付けられました。
開山は聖一国師円爾(えんに)を招き、当初は天台・真言・禅の三宗兼学の寺院でしたが、後に禅宗のみとなり、臨済宗の寺格である京都五山の第四位に列せられました。
現在は、臨済宗東福寺派の大本山となっています。
明治14年(1881)の火災により、仏殿・法堂・方丈・庫裡が焼失しますが、三門・東司・浴室・禅堂など、中世の建造物も現存しています。
開山堂に至る渓谷は洗玉澗(せんぎょくかん)と呼ばれ、そこを流れる三ノ橋川には、上流から偃月橋(えんげつきょう)・通天橋・臥雲橋がそれぞれ架けれていて、その周辺は紅葉の名所として知られています。
三門
三門は、応永12年(1405)室町幕府4代将軍である足利義持により再建されたものです。扁額「玅雲閣(みょううんかく)」は、義持の筆といわれています。
天正13年(1586)の大地震による修理を豊臣秀吉が行いますが、その際、屋根の隅に補足した柱は、後に「太閤柱」と呼ばれるようになりました。
本堂
本堂は、昭和9年(1934)焼失した仏殿の場所に建てられました。仏殿と法堂の役割を兼ね、塔頭の万寿寺から移された釈迦立像を本尊としています。
東司(とうす)
東司とは禅堂の横に置かれる便所のことで、室町時代前期の遺構とされています。