泉涌寺

泉涌寺の歴史

泉涌寺は、真言宗泉涌寺派の総本山です。

寺伝によると、空海によって天長年間(824-834)に建てられた草庵が起源とされ、斉衡3年(856)藤原緒継の再建により法輪寺と名付けられ、後に仙遊寺と改められました。

真言宗泉涌寺派の宗祖である、月輪大師俊芿(しゅんじょう)は、宋に渡り律宗などを納めた僧で、建保6年(1218)俊芿に帰依した宇都宮信房より仙遊寺を寄進され、伽藍の造営にとりかかります。その際、現在の水屋形の場所より清泉が涌き出たので、寺名を泉涌寺とします。嘉禄2年(1226)伽藍が完成し、泉涌寺は律(※1)を基本とした、真言・天台・禅・浄土の四宗兼学の道場となります。

月輪陵(後月輪陵)貞応3年(1224)後堀河天皇より勅願寺と定められ、仁治3年(1242)四条天皇の崩御により、泉涌寺で四条天皇の葬儀が行われ、山内に御陵が営まれました。以降、歴代の多くの天皇が泉涌寺で葬儀を行い、山内に埋葬されるようになります。こうした経緯から、泉涌寺は皇室の香華院、御寺(みてら)とも呼ばれています。

仏殿舎利殿創建当初の伽藍は、応仁の乱で焼失しており、現在の伽藍は江戸時代以降に造営されたものです。仏殿は、寛文8年(1668)4代将軍徳川家綱により再建されたもので、運慶作といわれる三世三尊佛を本尊としています。

舎利殿は、寛永年間(1624-1645)に御所の御殿を移し、新たに上層部を付けたして建てられています。本尊の舎利は、釈迦の歯にあたることから佛牙舎利と呼ばれています。仏殿と舎利殿の天井には、とぐろを巻いた龍(蟠龍)が描かれていて、舎利殿の龍は、龍の下で手を叩くと音を返してくれることから、鳴龍と呼ばれています。

(※1
律(律宗)とは、戒律(仏教の規則)の研究と実践を行う宗派のことです。
last update
2014-06-08