南禅寺は、臨済宗南禅寺派大本山の寺院で、臨済宗の寺格「五山」においては、別格(最上位)に位置します。
その起源は、文永元年(1264)亀山天皇が母である大宮院のために離宮「禅林寺殿」をこの地に造営したことに始まります。正応2年(1289)亀山天皇は、開山となる無関普門(※1)に帰依して法皇となり、正応4年(1291)には離宮を喜捨し、禅林寺殿は禅寺に改められます。2世の規庵祖円は伽藍の整備に努め、後宇多天皇から勅額「太平興国南禅禅寺」を賜り、寺名を南禅寺とします。
創建当初の伽藍は、室町時代に三回の火災に遭い焼失、再建が進んだのは、徳川家康に近侍し、天海と共に「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝が入寺してからになります。
寛永5年(1628)藤堂高虎が大阪夏の陣で倒れた将兵を弔うために再建したものです。高さは約22メートル、楼上を五鳳楼といい、本尊の宝冠釈迦如来坐像、脇侍に月蓋長者、善財童子、その左右に十六羅漢を配置し、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌を安置しています。門正面の片灯籠は、佐久間勝之が奉納したもので、高さは約6メートルあります。
離宮の「上の宮」があった場所とされています。明徳4年(1393)の火災や、応仁の乱によって荒廃。現在の方丈は、元禄16年(1703)5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院の寄進により再建されたものです。また、‘庭園の東南隅には亀山法皇の御遺言により御分骨を埋葬した御陵’(※2)があります。
明治18年(1885)琵琶湖疏水の着工により、‘疏水分線に水を通すためにつくられた、延長93.17m、幅4.06mの高架水道橋’(※3)です。赤煉瓦を用いたアーチ構造のデザインとなっています。
寛政11年(1799)刊行の『都林泉名勝図会』に南禅寺前の湯豆腐店の様子が描かれており、その文面に「名物」という単語があることから、当時、名物の湯豆腐屋が存在したという事がわかります。(右図:国際日本文化研究センター『都林泉名勝図会データベース』より)