三室戸寺は、本山修験宗別格本山の寺院です。
寺伝によると、天智天皇の孫の白壁王(しらかべおう)は、志津川の上流で発見された千手観世音菩薩(※)を崇敬していました。
宝亀元年(770)第49代天皇(光仁天皇)として即位されると、勅願により、尊像は宇治に移され、行表を開山として招き、「御室戸寺」が建立されます。
その後、光仁(709-782)、花山(968-1008)、白河(1053-1129)の三帝が離宮を置いたことから、頭文字の「御」を「三」とし、「三室戸寺」と改称したとしています。
また、天台宗寺門派に属していたため、開基を宗祖である円珍(814-891)とする文献もあり、創建については諸説存在しています。
- (※)
- "光仁帝の使者が三室戸山の滝壺に、二丈余りの千手観音が出現するのに出会い、喜びのあまり滝壺に飛び込むと、どこからともなくひらひらと蓮弁が流れつき、それを手のひらに乗せると、一尺二寸の尊像に化したのです。その後、桓武帝は、最初に出現した尊容を二丈の大像に刻み、小像を体内に納めたといいます。室町時代の伽藍炎上の際に大像は失いましたが、小像は火中より飛び出し、「火難消除の観音様」として今に伝えられています。"(二臀千手観音菩薩の由来より)
寛正三年(1462)食堂からの出火により伽藍を消失。
天正元年(1573)の槇島城の戦いでは、挙兵した足利義昭に三室戸寺の宗徒が味方したため、敵対していた織田信長は、三室戸寺の寺領を没収しています。
寛永16年(1639)道晃法親王(どうこうほっしんのう)によって再興されますが、明和年間(1764-1772)頃には荒廃してしまいます。
文化2年(1805)現在の本堂が建立され、同11年に改築が行われています。
昭和63年(1988)中根金作の設計施工により庭園が設けられ、現在の景観となります。
三重塔
元禄17年(1704)に造営された高蔵寺(兵庫県佐用郡三日月町)の三重塔を三室戸寺が買い取り、明治43年(1910)、三室戸寺に移築しました。
昭和52年(1977)頃、現在の地(本堂の東)に移築され、参道の西の旧地には、十三重石塔(※)が建立されました。
- (※)
- 2017年6月に配布された公式パンフレットには、十三重石塔及び塔へ到る参道が消えているため、拝観が出来ないか、撤去されていると推測されます。
阿弥陀堂
浄土真宗の宗祖「親鸞」の末娘「覚信尼(かくしんに)」が、親鸞の父「日野有範(ありのり)」の墓の上に建てた阿弥陀堂を起源とし、覚信尼は、阿弥陀堂に阿弥陀三尊を安置して、祖父の菩提を弔ったといわれています。
現在の阿弥陀堂は江戸時代後期に再建されたもので、「四十八願寺」の扁額は、有範が隠棲していた三室戸寺の別院四十八願寺のものと伝えられています。