勧修寺の歴史

勧修寺(※)は、真言宗山階(やましな)派の大本山の寺院です。代々法親王が住職を務める門跡寺院であったことから、山階門跡(やましなもんぜき)とも呼ばれています。

(※)
地名などでは、勧修寺を「かんしゅうじ」と読まれており、こちらの方が広く知られていますが、正しくは、「かじゅうじ」といいます。

その歴史は、昌泰3年(900)醍醐天皇が生母である藤原胤子(いんし)の菩提を弔うため、胤子の外祖父にあたる、宮道弥益の邸宅を寺院に改めたことに始まります。寺名は、胤子の父、藤原高藤(※)の諡号から「勧修寺」としました。

(※)
高藤と弥益の娘、列子の間に生まれたのが胤子で、出会いの経緯は、『今昔物語集』に記されています。

南北朝時代には、後伏見天皇の第7皇子、寛胤(かんいん)法親王(1309-1376)が入寺したことで門跡寺院となります。
文明2年(1470)の兵火によって堂宇を失い、衰退しますが、江戸時代に徳川家や皇室の援助により再興されました。

書院

書院

延宝元年(1673)から同3年にかけて建てられた後西天皇(※)の旧殿を賜り、貞享3年(1686)に移築されたものです。

(※)
明正(めいしょう)天皇の旧殿とする説もあります。
明正天皇は、後水尾天皇と徳川秀忠の娘(家光の実妹)と間に生まれた皇女で、寛永6年(1629)後水尾天皇が譲位したため、天皇に即位されました。
書院前の庭園

書院前の庭園は、樹齢約750年のハイビャクシンが生い茂り、水戸黄門で知られる水戸光圀(水戸藩2代藩主)の寄進と伝わる灯籠(勧修寺型灯籠)を配しています。

勧修寺型灯籠

宸殿

宸殿

元禄10年(1697)明正天皇の旧殿を賜り、移築したもの伝えられています。正面に、山階宮晃親王(1816-1898)の染筆になる「明正殿」の額を掲げています。

明治5年(1872)宸殿を教室にして、現在の京都市立勧修寺小学校の前身となる勧修寺村組合立小学校が開校。約9年間、教室として使われました。

本堂

本堂

2012年4月に撮影

寛文12年(1672)霊元天皇の仮内待所としていた、近衛家(※)の建物を賜り、移築したものと伝えられています。本尊は、室町時代に作られた160センチメートルほどの千手観音菩薩像で、醍醐天皇の等身像と伝えられています。

(※)
万治2年(1659)後陽成天皇の第4皇子近衛信尋の子、寛俊が勧修寺長吏となり、この寛俊が伝法灌頂を受けるにあたり、移築されたとしています。(参考①)

平成30年(2018)9月の台風21号による被害を受け、本堂の屋根にはブルーシートが張られていました。(2020年6月調べ)

氷室(ひむろ)の池

氷室の池

"古く平安時代には、毎年1月2日にこの池に張った氷を宮中に献上し、氷の厚さによってその年の五穀豊凶を占ったと言われ"(参考②)ています。また、氷室の池を中心とした、広さ約2万平方メートルの池泉庭園は、平安時代の遺構とされています。

豊臣秀吉の伏見城築城の際、新道建設のために池の南が埋められ、現在の規模になりました。

観音堂

観音堂

観世音菩薩像を本尊とする観音堂で、昭和6年(1931)に再建されたものです。

参考文献
  1. 梅原猛『京都発見(7)空海と真言密教』(新潮社)
  2. 天皇陛下御即位記念「京都山科非公開文化財等の特別公開」において、配布された資料