伏見稲荷大社の歴史
伏見稲荷大社は、穀物の神である稲荷神を祀る全国の稲荷神社の総本社であり、五穀豊穣・商売繁盛のご利益があるといわれています。
現在の稲荷神は、本殿で祀られている五柱の神とされていますが、古くは三ヶ峰に祀られていた三柱の神を指し、当時の人々はこの三ヶ峰を巡拝していました。今日では、その場所を巡拝する行為を「お山する(お山めぐり)」といい、参道には信者から奉納された約一万基の鳥居とお塚と呼ばれる無数の石碑があり、独特の雰囲気を醸しだしています。
歴史
伏見稲荷大社の起源は、
- 『山城国風土記』の逸文
- "秦伊呂具(はたのいろぐ)は、稲を積んで裕福であったため、餅を的にして弓を射ようとした。すると、餅は白鳥となって飛び去り、白鳥が舞い降りた山の峰には稲が実った(成った)。そこに伊呂具は社を建て、「イネ・ナリ」から「伊奈利(いなり)」と名付けた。"
- 社記『神号伝并後附十五箇条口授伝之和解』
- "和銅4年(711)2月壬午の日、深草の豪族である秦伊呂具は、勅命により三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀った。"
など諸説あります。
天長4年(827)「淳和天皇(じゅんなてんのう)」の体調が悪くなり、原因を占ったところ、造営中である東寺の五重塔に稲荷神社の神木が使われたことによる、稲荷神の祟りと判明します。朝廷は祟りを鎮めるため、稲荷神社へ使者を遣わし、病気平癒の祈願と稲荷神に従五位下の神階を贈りました。このような縁もあり、東寺は稲荷神を鎮守神としてお祀りしており、稲荷神社と深い結びつきがあります。神階はその後も累進し、朱雀天皇の御代の天慶5年(942)には、正一位となりました。
応仁の乱により殿舎を焼失。再興の費用を捻出するため、境内には本願所が設けられ、諸国勧進(広く寄付を募ること)が行われました。後に本願所は愛染寺と称し、明治政府の神仏分離令によって廃絶するまで東寺の末寺として存続しています。
伏見稲荷の本殿と祭神
本殿は明応元年(1492)に造営されたもので、三ヶ峰に祀られていた三柱の神を祭神としていました。
三柱の神
- 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
- 須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)から生まれた神で、兄の大年神とともに穀物を司る神とされています。
- 佐田彦大神(さたひこのおおかみ)
- 天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)が高天原(天)から葦原中国(地上)に降りる際、天の八衢(やちまた)で邇邇芸命を待っていた地上の神で、葦原中国までの道案内をしました。
- 大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
- 宮殿に仕え、言葉によって恵みをもたらすとされる『延喜式』の祝詞に登場する女神です。
現在、三ヶ峰に社殿はありませんが、かつて祭神が祀られていた場所を神蹟(※)とし、下社神蹟(三ノ峰)には宇迦之御魂神、中社神蹟(二ノ峰)には佐田彦神、上社神蹟(一ノ峰)には大宮能売神が祀られていたと考えられています。また、各末社には、「阿古町(あこまち)」(下社)、「黒烏(くろを)」(中社)、「小薄(おすすき)」(上社)といった固有の名前を持つ、稲荷神の神使(眷属)である白狐(びゃっこ)が祀られ、後に「命婦(みょうぶ)」という官位が授けられています。
- (※)
- 全部で7箇所(下社・中社・上社・長者社・荷田社・田中社・御膳谷)あり、明治時代にその場所を確定し、標石が建てられました。
明応8年(1499)より、三柱の神に田中神と四大神を加えれ、現在は五柱の神が本殿で祀られています。
- 田中大神(たなかのおおかみ)
- 田を司る神とされ、下社の摂社に祀られていました。
- 四大神(しのおおかみ)
- 参考③によると、その名の通り、四座の神が祀られていると推測されるが、詳細は不明とされています。
- 但し、同じ秦氏ゆかりの松尾大社には「四大神社(しのおおかみのやしろ)」があります。祭神を春若年神、夏高津日神、秋比売神、冬年神とし、社内の案内板には、"四季折々の神々で年中平安をお守り下さる神"と記されています。
元禄7年(1694)江戸幕府の寄進により、本殿正面に「向拝大唐破風」が付けられ、昭和36年(1961)には本殿手前に内拝殿が造営されました。尚、本殿の「向拝大唐破風」は内拝殿に付け替えられました。
鳥居の奉納とお塚信仰
神蹟にある塚
鳥居を奉納する習わしは、江戸時代から始まり、朱(丹塗り)の鳥居が奉納されるようなったのは、明治以降といわれています。鳥居のほとんどは木製ですが、明治から大正(主に大正期)にかけて奉納された石鳥居もあります。
お塚は、稲荷神に別称を付けて信仰する人々が石碑にその名を刻み奉納したもので、当初は神蹟を破壊するとして石の持ち込みを禁止、排除していましたが、明治4年(1871)明治政府の上知令により、一時的に国有地となり、神社側が管理出来ない間に奉納が盛んに行われ、神蹟に私的な塚が混在する景観になっています。
千本鳥居とは
奥宮から奥社奉拝所までの鳥居の参道の中での二筋に分かれている場所を「千本鳥居」(※)といいます。
- (※)
- 参考文献①"この間に千本鳥居と称して崇敬者の奉納になる鳥居がまるでトンネルとなっている二筋に分かれた参道があるが"を根拠にしています。
秀吉寄進の楼門
豊臣秀吉が母の病気平癒の祈願を稲荷神社に依頼したところ、成就したため、秀吉からの寄進があり、楼門はその寄進によって造営さたものです。
昭和48年(1973)に解体修理が行われた際、天正17年(1589)の墨書が発見されており、造営時期の裏付けが取れました。
お山めぐりの所要時間
- 本殿から千本鳥居まで6分、そこから重かる石のある奥社まで2分(往復16分)
- 奥社から中腹の四ッ辻まで25分(往復50分)
- 四ッ辻から一周して三ヶ峰を巡拝するのに1時間(60分)
基本的に1.千本鳥居の先にある奥社まで行く、2.見晴らしのいい四ッ辻まで行く、3.三ヶ峰を巡拝(お山めぐり)する、という3つの参拝パターンがあり、3まで含めると2時間半はかかります。
あくまで混雑していない場合の所要時間であり、平日でも混雑している現在(令和6年10月某日調べ)では、あまり参考になりません。
また、平日であった影響かもしれませんが、参拝客の9割以上が外国人であり、お塚の前の階段で座り込む方も多いので、思うような参拝が出来ないかもしれません。
参考文献
- 伏見稲荷大社社務所『伏見稲荷大社略記』(平成17年9月1日 第16版)
- 稲荷山共栄会『霊峰稲荷山を巡る』
- 井上満郎『お稲荷さんの正体』(洋泉社)