延暦寺

延暦寺の歴史

延暦寺は、滋賀県大津市と京都市左京区の県境にある、比叡山(標高約848m)一帯を境内とする天台宗の本山寺院です。山内は東塔、西塔、横川(よかわ)という3つの区域に分かれていて、これらは三塔と呼ばれ、さらに分けたものを三塔十六谷二別所といいます。

根本中堂延暦寺の歴史は、延暦7年(788)伝教大師最澄により、現在の東塔に建てられた草庵が始まりとされています。この草庵は、根本中堂の前身で、本尊は最澄が彫ったとされる薬師如来でした。創建当時の延暦寺は、薬師堂・文殊堂・経蔵といった小規模なもので、一乗止観院と名付けられました。

時の天皇である桓武天皇は、以前から権力を保持していた南都六宗(奈良仏教)の牽制も兼ねてか、最澄や空海を支援したことで知られています。また、桓武天皇は延暦3年(784)に長岡京、同13年(794)には平安京に遷都を行っています。最澄は、延暦24年(805)唐に渡り、天台数学・戒・禅・密教の思想を学び、これらの思想を取り入れて日本独自の天台宗を唱え、全ての人が菩薩であり、仏になる(悟りを開く)ことが出来ると説きます。

当時の僧という身分は国家資格で、僧になる儀式を行う戒壇は、奈良の東大寺、大宰府の観世音寺、下野国の薬師寺にしか認められていなかったことから、最澄は比叡山に戒壇を設立することを目指します。許可されたのは、弘仁13年(822)、最澄の亡くなってから7日後になりますが、戒壇の設立後、延暦寺は浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮といった日本史における著名な僧を輩出していくことになります。

元亀2年(1571)の比叡山焼討ち(元亀の兵乱)により衰退しますが、豊臣秀吉や徳川家康による庇護や、徳川3代に仕えた慈眼大師天海の活躍もあり、再興していきます。尚、延暦寺の総本堂にあたる根本中堂は、3代将軍家光により再建されたものです。

西塔と横川

転法輪堂(釈迦堂)西塔は、第2世天台座主である寂光大師円澄によって開かれ、本堂である転法輪堂は、延暦寺に現存する最古の建築物となっています。

転法輪堂は、釈迦如来を本尊とすることから、釈迦堂とも言われています。文禄4年(1595)豊臣秀吉の命により、滋賀県大津市の園城寺(三井寺)にあった金堂を、この地に移築しました。創建は、園城寺の記録によると、貞和3年(1347)とされています。

横川中堂(首楞厳院)横川は、第3世天台座主の慈覚大師円仁によって嘉祥元年(848)に創建された横川中堂が始まりとされています。

横川中堂は、昭和46年(1971)に再建されたものです。その前は、豊臣秀頼と淀君によって再建されたものでしたが、昭和17年(1942)落雷のため焼失しています。本尊は、円仁作とされる聖観音菩薩です。

last update
2014-06-08