東寺の歴史

東寺 五重塔と南大門

五重塔と南大門

東寺は、延暦13年(794)桓武天皇による平安遷都の後、都の入口にあたる羅城門から平安宮を繋ぐ朱雀大路を境にして、平安京の東側の区画に造営された官寺です。現存していませんが、西側の区画には西寺が造営され、両寺の配置は左右対称となっていました。

弘仁14年(823)空海に下賜され、東寺は真言密教の寺院となり、教王護国寺(きょうおうごこくじ)と寺名を改めます。下賜される前は、金堂と僧房といった堂宇しかなかったため、空海は講堂や食堂、五重塔などの造営に着手し、伽藍の整備を積極的に行いました。

天長3年(826)五重塔の造営が始まりますが、淳和天皇の体調が悪くなり、原因を占ったところ、五重塔に稲荷神社(伏見稲荷大社)の神木が使われたことによる、稲荷神の祟りと判明します。建造は中断され、完成は元慶年間(877-885)まで遅れたといわれています。

天長5年(828)綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という、日本初の私立学校を開設。空海は、多様な思想や知識を身分を問わずに誰でも学ぶ事ができる教育機関を目指していたといわれています。

承和2年(835)正月、空海は真言院で最初の後七日御修法(※)を執り行い、同年3月21日、高野山奥の院で生きたまま仏となりました(即身成仏)。延喜21年(921)醍醐天皇から空海に「弘法大師」の諡号が贈られています。

(※)
後七日御修法(ごしちにちみしほ)とは、1月8日から14日まで、宮中の真言院で行われる「国家鎮護」「五穀豊穣」「玉体安穏」「皇祚無窮」を祈願する儀式(修法)のことです。
1月1日から7日までの神事を終えた後、七日続けて行われる修法であることから、後七日御修法と呼ばれています。

当時の東寺長者(※1)であった親厳(しんごん)は、仏師康勝(※2)に空海の彫像を作らせ、元福元年(1233)に西院の御堂に安置します。これにより、新たな大師崇拝が始まり、「御影堂」と呼ばれる由縁となります。

延応2年(1240)後白河法皇の皇女「宣陽門院(せんようもんいん)」によって、空海の月命日の法要が御影堂で行われるようになります。それを聞きつけ、法要の日に参拝する者が次第に増えていき、屋台が出るような賑わいを見せるようになります。これが毎月21日に行われている弘法市(弘法さん)の起源といわれています。

(※1
東寺の長官、責任者。
(※2
康勝は運慶の四男。

建武3年(1336)5月25日、湊川(みなとがわ)の戦いで、新田義貞・楠木正成軍を打ち破った足利尊氏は、光厳上皇を伴って東寺に入り、食堂を本陣、小子房を御所とします。東大門が不開門(あかずのもん)と呼ばれるのは、新田軍との戦で敗走した足利軍が、東大門を閉ざして難を逃れたことに因みます。

応仁の乱による被害は免れましたが、幕府や守護といった支配者層の統治能力は低下し、徳政を求めた民衆の武装蜂起(土一揆)がしばしば起こります。
守護不入の特権を持っていた東寺は、土一揆の本拠地にされることがあり、文明18年(1486)の土一揆では、細川政元の軍勢が鎮圧に向かったところ、境内から火災が発生し、「金堂」「講堂」「南大門」「鎮守八幡宮」などが焼失。この出来事は、東寺の歴史の中で最も大きな被害を出したといわれています。

明治政府の神仏分離の影響により、宮中で行われていた後七日御修法は、明治4年(1871)に廃止されますが、明治16年(1883)より、東寺境内の灌頂院に場所を移して再開されました。

五重塔

現在の五重塔は、寛永21年(1644)徳川3代将軍家光により再建されたものです。塔の高さは約55メートルあり、木造塔としては日本一になります。

金堂

東寺 金堂

豊臣秀頼が施主となって、慶長8年(1603)に再建されたものです。方広寺の大仏殿を模したものといわれており、裳階(※1)の正面中央には、小窓が設けられています。
光背に七仏、台座に十二神将を配した「七仏薬師如来」を本尊とし、脇侍には「日光菩薩」「月光菩薩」が祀られています。(※2

創建当初の金堂は、文明の土一揆によって、周囲に存在していた回廊や安置されていた仏像などと共に焼失しています。

(※1
裳階(もこし)は、金堂を二層に見せている、建物の周りに作られた庇(ひさし)状の構造物のことです。
(※2
桃山時代の仏師、康正の作といわれています。

講堂

東寺 講堂

創建当初の講堂は、文明の土一揆により焼失しており、現在の講堂は、延徳3年(1491)の再建(※)としています。文禄5年(1596)の大地震で倒壊しますが、慶長3年(1598)から工期5ヵ月で復旧されています。

(※)
『醍醐寺文書』に延徳3年(1491)に立柱されたと記されていることから。
瓦に永正(1504-1520)、大永(1521-1527)のものが使われているものがあることから、実際に完成したのは大永2年(1522)頃と考えられています。

祀られていた二十一尊のうち、十五尊は焼失を免れ、現存しています。二十一尊の配置は、曼荼羅を立体的に表したもので、「立体曼荼羅」(※)と呼ばれています。

(※)
「羯磨曼荼羅(かつままんだら)」とも呼ばれていますが、最近の広報資料などを考慮すると、東寺講堂の立体曼荼羅とするのが妥当(伝わりやすい)と思われます。
参考文献
  1. 東寺(教王護国寺)宝物館『東寺の建造物』
  2. 真言宗総本山東寺『東寺 光の日日』(第58集から)
  3. 竹内のぶ緒『東寺 行こう』(雄飛企画)
  4. 東寺友の会『東寺友の会だより 風信』
  5. 梅原猛『京都発見(7)空海と真言密教』(新潮社)