仁和寺(にんなじ)は、真言宗御室派の総本山の寺院です。

仁和2年(886)光孝天皇は西山御願寺という勅願寺の建立を計画しますが、翌年に崩御されます。建立の計画は、仁和4年(888)次代の宇多天皇によって達成され、寺名は年号「仁和」から「仁和寺」と名付けられました。

寛平9年(897)宇多天皇は醍醐天皇に譲位され、その2年後、出家して法皇となり、仁和寺に入ります。
延喜4年(904)境内に法皇の御所「御室(おむろ)」が造営され、宇多法皇は初代門跡に就任します。門跡とは皇室関係者が務める住職のことで、仁和寺はその先駆けとして、慶応3年(1867)に小松宮が勅命により退任するまでの間、30代続きました。

応仁の乱においては、応仁2年(1468)9月、仁和寺に陣を敷いていた西軍に対し、東軍が攻撃を加えた結果、御室を含む伽藍を失い、仁和寺は衰退します。

江戸時代に入り、3代将軍の徳川家光に再興を許されたことにより再建が始まり、京都御所から紫宸殿、清涼殿、御常御殿が仁和寺に移され、紫宸殿は金堂、清涼殿は御影堂、御常御殿は宸殿に改められます。二王門、五重塔、観音堂などは、この時期に建てられたもので、伽藍の造営は、正保3年(1646)に完了しました。

白書院明治20年(1887)の火災により、御殿の大部分が焼失してしまい、明治23年に仮宸殿として現在の白書院が建てられます。明治42年(1909)に黒書院、明治44年に霊明殿、大正2年(1913)に勅使門、大正3年には宸殿が建造され、現在に至ります。

金堂

金堂仁和寺の本堂で、本尊の阿弥陀三尊を安置しています。

現在の金堂は、慶長年間(1596-1615)に造営された御所の紫宸殿を寛永年間(※)に移築したもので、現存する紫宸殿では最古のものとなっています。

(※)
"寛永19年(1642)から21年にかけて(『顕証日次記』)"

観音堂

観音堂観音堂は、宇多法皇の第3皇子、真寂法親王(※)が夢の中で、弘法大師空海から「観音堂の建立せよ」とのお告げを賜り、延長6年(928)に創建されました。

現在の観音堂は、寛永18年から正保元年の間(1641-1645)に再建されたもので、千手観音菩薩を本尊とし、相承の最高儀式「伝法潅頂」などが執り行われています。

(※)
北野天満宮の祭神「菅原道真」の娘婿で、出家前は斉世親王(ときよしんのう)といいました。
昌泰4年(901)道真が大宰府に左遷されると出家し、真寂(しんじゃく)と名乗ります。

亀岡末吉霊明殿勅使門亀岡式

"東京美術学校で日本画を専攻し、卒業後は内務省の古美術調査等に従事しました。明治40年(1907)以降になると、京都府や滋賀県などの技師として、本格的に寺社の修理に関わり、設計も行うようになります。
亀岡の彫刻デザインは「亀岡式」と名付けられ、当時の建築界に大きな影響を与えました。"

『京の近代仏堂 2.復古主義』(京都市文化観光資源保護財団)

現存している仁和寺の霊明殿、勅使門、宸殿は、亀岡の設計によるものです。

参考文献

佐藤令宣・草野満代『新版 古寺巡礼 京都 第22巻 仁和寺』(淡交社)

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