二条城の歴史

二条城

二の丸御殿

目次
  1. 歴史
    1. 築城開始
    2. 家康と秀頼の会見
    3. 後水尾天皇の行幸
    4. 幕末
    5. 大政奉還と王政復古の大号令
    6. 二条離宮
    7. 大正天皇の即位礼
    8. 恩賜元離宮二条城
  2. 参考文献

築城開始

慶長6年(1601)5月に着工され、家康の初入城までには、城の主要部分が完成していたと考えられています。

慶長8年(1603)2月12日、伏見城にて将軍宣下を受け、征夷大将軍に任じられた家康は、同年3月12日、二条城に初入場。同月25日、京都御所へ出仕して将軍就任の挨拶を行い、27日には二条城にて将軍就任の祝宴の儀を開きました。

家康と秀頼の会見

慶長16年(1611)3月、大阪の役の要因ともいわれる、家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われます。家康自ら秀頼を出迎え、丁重にもてなしますが、秀頼はその日のうちに大坂城に帰り、この二人の顔合わせはこれが最後となりました。

後水尾天皇の行幸

寛永元年(1624)3代将軍の家光により、廃城となっていた伏見城の遺構を移すなどの増築が行われます。寛永3年(1626)後水尾(ごみずのお)天皇が行幸されており、増築はこの行幸のためだったと考えられています。
寛永11年(1634)家光が30万ともいわれる大軍を率いてを上洛入城しますが、将軍による上洛はこれを機に中絶しました。

幕末

欧米列強の開国要求により、幕府は朝廷との連携が必要となり、家光の上洛から229年ぶりとなる、文久3年(1863)14代将軍の家茂が上洛入城。慶応2年(1866)家茂が大坂城で死去したため、同年、最後の将軍となる慶喜が二条城にて将軍宣下を受けました。

大政奉還と王政復古の大号令

慶応3年(1867)10月13日、慶喜は大政奉還、すなわち、朝廷に大政(政権)を返上することついての意見を求めるため、各藩の重臣を二の丸御殿に招集します。翌日、慶喜は大広間一の間にて大政奉還を宣言。翌15日に朝廷が許可し、徳川幕府の歴史が幕を閉じました。

慶応3年(1868)12月9日、朝廷は王政復古の大号令を発して、天皇を中心とした新政府の樹立を宣言します。慶喜には、内大臣の辞職と幕府領の返上(辞官納地)が命じられたため、これに反発した旧幕府軍は、京都へ向けて挙兵します。翌年1月3日、新政府軍と戦闘になり、戊辰戦争の緒戦となる「鳥羽・伏見の戦い」が起こります。

その後、二条城は朝廷の管理下に入り、明治4年(1871)には、京都府(※)の管轄となり、二の丸内に府庁が置かれました。(建物は、明治6年より陸軍省の所管。)

(※)
慶応4年(1868)3月、市中取締役所を京都裁判所と改称し、翌月、「京都府」に改められます。初代府知事は、長谷信篤(ながたにのぶあつ)。

二条離宮

明治17年(1884)皇室の別邸「二条離宮」となり、宮内庁の管轄になります。(府庁は翌年に現在の場所へ移転。)

二条城の離宮化に伴い、徳川家の家紋である葵の紋が使われた屋根飾りや飾金具などが、皇室の紋章である菊の御紋に替えられました。

大正天皇の即位礼

南門

南門(左)大正大禮京都府記事關係寫眞材料(京都府立京都学・歴彩館所蔵)

大正4年(1915)大正天皇の即位礼に際し、南門・南橋が新造され、大饗宴場や舞楽場といった客をもてなすための施設が建てられました。

恩賜元離宮二条城

昭和14年(1939)二条離宮は京都市に下賜され、同市は「恩賜元離宮二条城(おんしもとりきゅうにじょうじょう)」と名を改め、翌年より一般公開を始めました。

参考文献
  1. 『世界遺産 二条城公式ガイドブック』(京都市文化市民局 元離宮二条城事務所)
  2. 都市史21 二条城 - 京都市
  3. 織田信長と京都 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所(pdf)
  4. 京都市教育部社会教育課『恩賜元離宮二条城』
  5. 『大正大禮京都府記事關係寫眞材料』(京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ)