二条城は上洛の際の宿泊所として、徳川家康により建造されました。
慶長7年(1602)に着工され、翌年の2月12日、伏見城にて将軍宣下を受け、征夷大将軍に任じられた家康は、同年3月12日、二条城に入ります。同月25日、御所に出仕した家康は、将軍就任の挨拶を行い、同月27日、二条城で将軍就任の祝宴の儀を開きました。

慶長16年(1611)大阪の役の要因ともいわれる、家康と豊臣秀頼の会見が行われています。

寛永元年(1624)3代将軍の家光により、廃城となっていた伏見城の遺構を移すなどの増築が行われます。寛永3年(1626)後水尾天皇が二条城へ行幸されており、増築はこの行幸のためだったと考えられています。
寛永11年(1634)家光が上洛しますが、将軍による上洛は、これを機に中絶します。

米国の開国要求により、幕府は朝廷との連携の必要性が高まり、家光の上洛から229年ぶりとなる、文久3年(1863)、14代将軍の家茂が上洛します。
慶応2年(1866)慶喜が二条城にて将軍宣下を受けますが、翌年、慶喜は朝廷に大政(政権)を返上し、最後の将軍となりました。

その後、二条城は朝廷の管理下に入ります。明治4年(1871)京都府の管轄となり、二の丸内に府庁が置かれます。建物は、明治6年(1873)より陸軍省の所管となります。
明治17年(1884)宮内省の管轄となり、名称を「二条離宮」と改め、翌年、府庁を現在の場所に移します。

南門大正4年(1915)大正天皇の即位の礼のため、新たに南門(右写真)が作られ、二条離宮は宴会場として使われました。

昭和14年(1939)二条離宮は京都市に下賜され、同市は「恩賜元離宮二条城」と名を改め、翌年より一般公開を始めます。

二の丸御殿と大政奉還

二の丸御殿書院造の建造物で、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が東南から西北にかけて斜めに立ち並んでいます。
慶応3年(1867)10月13日、慶喜は大政奉還についての意見を求めるために各藩の重臣を二の丸御殿に招集し、翌日、大広間一の間にて大政奉還を宣言しました。

二の丸庭園

二の丸庭園と黒書院現在の二の丸庭園は、家光の時代に小堀遠州によって改修されたもので、池の中心に3つの島、北西に滝を配置し、4つの橋を架け、水際に岩石を並べています。後水尾天皇の行幸の際には、池を取り囲むように建物が建てられており、往時は中庭的な池泉式庭園だったと推測されます。

本丸御殿

本丸御殿(天守閣跡から)二の丸御殿と同等の規模を誇る御殿でしたが、天明8年(1788)の京都大火により焼失しています。幕末に入り、慶喜の住居として再建されますが、明治14年(1881)に撤去されています。現在の御殿は、京都御苑にあった旧桂宮邸の御殿(※)の一部を移築したものとなっています。

(※)
内裏(京都御所)の再建中は、孝明天皇の仮皇居として利用されていました。

旧二条城の石垣

二条城周辺図旧二条城とは、織田信長が足利15代将軍義昭のために造営した城を指し、義昭の兄である13代将軍義輝の屋敷を拡張する形で造られました。ルイス・フロイスの記録によると、永禄12年(1569)2月に着工し、70日程で全容を現したとしています。

二条城にある「旧二条城の石垣」は、地下鉄烏丸線の建設に際し、烏丸下立から発見された石垣の一部を移転したもので、石材の一部に石仏・石碑・礎石が転用されていたことが確認されています。

二条殿と本能寺の変

二条殿は、織田信長が五摂家である二条家の邸宅を譲り受け、自らの宿泊所としたものです。天正7年(1579)誠仁親王に献上されており、天正10年6月2日、本能寺(※)を宿にしていた信長は、明智光秀から寝込みを襲われたため、寺に火を放ち自害します。また、二条殿も織田信忠が立て籠もって明智軍と交戦したため、焼失しています。誠仁親王は難を逃れますが、信忠は二条殿で自害しました。(本能寺の変)

(※)
その後、本能寺は豊臣秀吉の命により、現在の御池通りを挟んだ京都市役所の南に移転します。
参考文献

都市史21 二条城 - 京都市

織田信長と京都 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所(pdf)

京都市教育部社会教育課『恩賜元離宮二条城』

京の記憶アーカイブ『大正大禮京都府記事關係寫眞材料』(京都府立京都学・歴彩館)

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