高台寺は臨済宗建仁寺派の寺院です。
正しくは、「高台寿聖禅寺(こうだいじゅしょうぜんじ)」といいます。

豊臣秀吉は、慶長3年(1598)8月18日に伏見城で亡くなり(※1)、翌年には後陽成天皇から豊国大明神の神号が贈られ、秀吉が埋葬されている阿弥陀ヶ峰には、秀吉を祀る豊国社が創建されます。
高台寺は秀吉の菩提を弔うため、北政所(※2)おねによって、慶長11年(1606)に建立されたもので、寺名は、おねが出家後に同天皇より「高台院」の院号を賜ったことに因みます。

(※1
おねの実母である「朝日」が、一週間前に亡くなっています。
(※2
天皇の宣旨によって、関白の正妻に贈られる称号で、関白の生母である「なか」には「大政所」の称号が贈られました。

創建は、徳川家康の支援を得て行われており、京都所司代である板倉勝重の指揮のもと、堀直政や、秀吉子飼いの武将であった福島正則、加藤清正、浅野長政といった武将も普請に参加しました。造営には伏見城の遺構も使われており、伏見城の化粧御殿と庭園が移築された、慶長10年(1605)、おねは京都の三本木(※)からこの地に移住します。

(※)
京都御苑にある白雲神社の東側一帯を三本木と呼んでいました。

創建時は曹洞宗の寺院でしたが、住職の交代が頻繁に行われたため、寛永元年(1624)建仁寺の「三江紹益(さんこうじょうえき)」を招き、臨済宗に改宗します。また、同年9月におねが亡くなっています。

明治政府の上地令より、高台寺の敷地は1万5千坪まで減りましたが、往時は9万5千坪という広大な寺領を有していました。

平成元年(1989)4月の一般公開に向け、小堀遠州作と伝わる「鶴亀の庭」の修復などの整備が行われました。

開山堂(持仏堂)

開山堂おねの持仏堂として、慶長10年(1605)に建てられたもので、養父母である浅野長勝・七曲夫妻(※)が祀られていました。

慶安3年(1650)三江紹益が亡くなると、三江紹益の墓所となり、開山堂に改められました。現在、開山堂には三江紹益の他におねの兄である木下家定・雲照院夫妻や堀直政の木像が祀られています。

(※)
おねは浅野長勝・七曲夫妻の養女として秀吉に嫁いでいます。「七曲(ななまがり)」は春日の妹で、慶長8年(1603)に亡くなっています。

霊屋おたまや

霊屋霊屋石垣の上に建てられた、宝形造、檜皮葺(ひわだぶき)の建物で、慶長10年(1605)に建立されました。

内陣の須弥壇中央の厨子内(※1)には、秀吉の念持仏と伝わる秘仏(※2)などが納められています。また、その両脇の厨子内には「豊臣秀吉像」、「高台院像」がそれぞれ安置されています。おねは亡くなると、この高台院像の下に埋葬されました。

(※1
さらに小さな厨子があり、秘仏はその中に納められています。
(※2
本尊の大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)坐像と、その脇侍として吉祥天(きっしょうてん)立像、毘沙門天立像が安置されています。

ろうせんろうかんげつだい開山堂と観月台

開山堂と北書院を結ぶ回廊を楼船廊、回廊の中間にある、三方に唐破風の屋根を持った建物を観月台といい、観月台は伏見城の遺構と伝えられています。

表門表門

桃山時代の建造物で、加藤清正が伏見城に建てた門を移築したものといわれています。京都霊山護国神社へ向かう途中にあります。

安閑窟あんかんくつ(傘亭と時雨亭)安閑窟安閑窟

安閑窟は「草堂」「高堂」と呼ばれていた伏見城の遺構とされる建物を、移設後に茶屋として改めたものです。二つの建物は、小堀遠州作と伝わる吹き放しの土間で繋げられています。単層で宝形造の草堂は、"屋根裏に放射状に組まれた竹があたかも傘をひろげたように見えることから"「傘亭」と名付けられ、二層で入母屋造の高堂は、傘亭の名に因み、「時雨亭」としました。

御陵衛士と高台寺党

月真院御陵衛士とは、新撰組から離脱した伊東甲子太郎が同志とともに結成した組織で、その名の通り、天皇の墓(※)を守ることを目的としていました。
慶応3年(1867)の6月から11月にかけて、塔頭の月真院に御陵衛士の屯所が置かれていたことから、高台寺党とも呼ばれるようになります。

(※)
泉涌寺にある、孝明天皇(1831-1867)の後月輪東山陵
参考文献

小堀泰巖・飯星景子『新版 古寺巡礼 京都 第37巻 高台寺』(淡交社)

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