神護寺

神護寺の歴史

神護寺は、高野山真言宗の別格本山です。

和気清麻呂により、和気氏の菩提寺として建てられた高雄山寺を起源としています。清麻呂は、天応元年(781)河内国(大阪)に国家安泰を祈願して神願寺を建立しますが、 高雄山寺の創建もそれと同じ時期と考えられています。清麻呂は、平安遷都を進言し、平安京造営の責任者となった人物で、没後、その子孫により高雄山寺の山内に墓が営まれます。また、帰朝した最澄や空海を高雄山寺に招いています。

空海は大同4年(809)に入山し、その後、清麻呂の子息である真綱・仲世、最澄などに灌頂を授けます。授けた僧の名と結縁を結んだ仏の名は、空海自ら記した手控えによって知ることができ、現在は「灌頂暦名」という名で神護寺に納められています。

天長元年(824)真綱・仲世の要請により、神願寺をこの地に移して高雄山寺と合併させます。寺名を神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改め、真言宗の寺院となります。尚、神護寺とは神護国祚真言寺の略称です。

‘正暦5年(994)と久安5年(1149)の二度の火災にあい、さらに久安年間に、鳥羽法皇の怒りに触れて全山壊滅の状態’(※1)となります。その惨状をみた文覚は再興を決意しますが、後白河法皇に再三の勧進が嫌われ、強訴の罪で伊豆に流罪となります。そこで源頼朝と出会い、文覚は頼朝に平家討伐を勧め、平家の討伐に成功した暁には神護寺への援助をする約束を交したとされています。寿永元年(1182)後白河法皇から勅を得たことで再興が許され、法皇や頼朝の寄進もあり、復興していきます。

応仁の乱で伽藍を焼失、江戸時代に入り、京都所司代板倉勝重により再興が計られ、金堂(現毘沙門堂)、五大堂、鐘楼、楼門などが再建されます。

昭和10年(1935)金堂、多宝塔、和気清麻呂霊廟などが、実業家で元多額納税者議員の山口玄洞居士、同じく実業家の内貴清兵衛などの援助により再建され、現在に至ります。

大師堂

大師堂納涼房ともいい、弘法大師の住房であったといわれています。仁安3年(1168)文覚が再建したものを、桃山時代に細川忠興が大規模な修繕を行ったと伝えられています。

本尊の板彫弘法大師像は、正安4年(1302)仏師定喜によって造られたと「神護寺略記」に記載されています。

性仁法親王(1267-1304)

後深草天皇の皇子で、仁和寺12世門跡でしたが、‘神護寺が文覚上人によって復興された後、入山し、その後、神護寺の興隆につくされ、高雄御室と称された人物’(※1)です。

(※1
別格本山高雄山神護寺 谷内乾岳『高雄山神護寺』より
last update
2014-11-03